こうして、全国的な注視をあつめながら、しかし、那須湖畔にある犬神家の本邸は、ま
るで窒息したように鳴りをしずめていた。竹子や梅子の一家は、まだ、本邸に滞在してい
たが、かれらと松子親子とのあいだにはほとんどなんの交渉もなく、めいめい、それぞれ
の部屋にこもったまま、たがいに顔色を読み、腹の底をさぐりあっていたのだ。
いまや、犬神家の本邸には、たがいに利害の|錯《さく》|綜《そう》する、四つの台
風がたむろしているわけである。松子の一家と、竹子の一家と、梅子の一家、それに野々
宮珠世と。……
この場合、珠世の立場こそあわれであった。松子、竹子、梅子の三姉妹とその一家は、
たがいに仇敵のごとく憎みあいながら、しかも、野々宮珠世を憎み、呪うことにかけては、
かれらも一致しているのである。それでいて、かれらのうちのだれひとりとして、その憎
悪をあらわに表現するものはない。松子、竹子、梅子も、心中に毒針のような|嫉《ねた》|
刃《ば》を蔵しながら、しかも、珠世に向かっては、お世辞とお愛想の百万遍であった。
そして、こうして心にもないお世辞を、この年若い孤児にならべねばならぬことについて、
かれらははげしい憤りを感じており、そのために、珠世に対して、二重の憎しみを覚える
のであった。
佐武と佐智とは、たぶん、両親の|使《し》|嗾《そう》によるものだろう、ちかごろ
珠世のもとに日参だった。さすがに|傲《ごう》|岸《がん》|不《ふ》|遜《そん》の
佐武は、はじめから自信満々たる面持ちで、見えすいたお世辞はならべなかったけれど、
軽薄才子の佐智の、しっぽのふりようといったらなかった。かれは珠世の周囲を走りまわ
って、チンチンをし、おあずけをし、クンクン|啼《な》いてみせ、|媚《び》|態《た
い》の限りをつくした。
思えば珠世という女性はあっぱれである。彼女はしめった肌が電流に感じやすいように、
全身をもって、自分にむけられた犬神家の一族の、憎悪と|呪《じゅ》|詛《そ》を感じ
ながら、少しも悪びれたふうはなかった。彼女はいつも美しく、気高く、自信にみちた佐
武に対しても、|軽《けい》|躁《そう》な佐智に向かっても、ほとんど、なんの変わり
もない態度で接していた。もっともかれらを自分の部屋に迎えるときには、いつも隣室に、
猿蔵を|侍《はべ》らせておくことは忘れなかったが。……
珠世はまた、あの奇妙な仮面をかぶった佐清に対しても、けっして|尻《しり》ごみは
しなかった。もっとも、佐清のほうから彼女を訪ねてくることは、絶対になかったので、
ときどき、彼女のほうから佐清の部屋へ訪ねていくのだが、伝うるところによると、この
対面はよっぽど奇妙なものであったらしい。珠世は佐清を訪ねていくときも、猿蔵をつれ
ていくことをけっして忘れなかったが、佐清のほうでも、彼女に会うときは、いつも母の
松子夫人がいっしょだった。こうして松子夫人と猿蔵の陪席のうちに、佐清と珠世の会見
は行なわれるのだったが、この会見はとかく言葉もとぎれがちであったらしい。
あの奇妙な仮面をかぶった佐清は、おのれの醜悪な容貌を意識しているのか、ほとんど
口をきくことはなかった。勢い、発言するのは、おもに珠世のほうだったが、彼女の言葉
が質問めいたり、また、佐清の過去の問題にふれたりすると、いつもそれをひきとって、
代わって返事をするのは松子夫人だった。夫人はそれにさりげなく答えながら、巧みに話
題をほかへそらせていく。そういうとき珠世の顔色は眼に見えて悪くなり、どうかすると、
かすかにふるえていることさえあったという。
それはさておき、彼女の愛を得ようとして、しだいにあせりの見えてくる、佐武や佐智
のなかに身をおきながら、彼女の体にまちがいの起こらなかったのは、ひとえに猿蔵のお
かげだったろう。
珠世を自分のものにする、いちばん、手っ取り早い方法……それは暴力でもなんでもい
いから、彼女を征服してしまうことだ。と、いうようなことを佐武や佐智が知らぬはずは
なかったのである。事実、かれらがそういう露骨な態度を、示しかけたことは一度や二度
ではなかった。それにもかかわらずかれらが珠世に指一本ふれることができなかったのは、
そこに猿蔵という人物がいたからであった。もし佐武や佐智が、理不尽にも珠世に暴行を
加えようとしたら、たちまち醜い巨人のために、首根っ子を折られねばならなかっただろ
う。
「ああ、猿蔵という男ですか」
古館弁護士はあるとき、つぎのように猿蔵なる人物について、金田一耕助に説明した。
「あれは、ほんとうの名前は猿蔵というんじゃないんです。本名はほかにあるのですが、
ほら、あのとおり猿とそっくりの顔をしているでしょう。それで幼いころから、猿、猿と
いわれていたのがいまでは本名みたいになってしまって、私などほんとうの名前は忘れて
しまったくらいですよ。小さいときから孤児でしてね。それを|不《ふ》|憫《びん》が
って、珠世さんの、おっ母さんの、祝子がひきとって養育したんです。ええ、そう、小さ
いときから、珠世さんとずうっといっしょに育てられたわけですが、珠世さんの両親がな
くなって、珠世さんが犬神家へひきとられるとき、いっしょについてきたんですよ。少し
足りないところもあるんですが、それだけに、珠世さんに対する忠誠、と、いうか、献身
的な奉仕には盲目的なところがあるんです。珠世さんのいうことならなんでもききます。
珠世さんが殺しをしろといえば、平気で人も殺す男ですよ」
最後の一句は、おそらく猿蔵の珠世に対する、盲目的な忠誠を形容するために、何気な
く吐いた言葉にちがいないが、その瞬間、言った古館弁護士も、聞いた金田一耕助も、ハ
ッとして、探りあうように、たがいに顔を見合わせた。
古館弁護士は、後悔の色をうかべて、ギゴチなく|空《から》|咳《せき》をしたが、
金田一耕助はわざと話題をそらすように、
「そうそう、猿蔵といえば、犬神家で菊作りをしているとか……」
「ええ、そう、あの菊、ごらんになりましたか。少し足りないところもあるが、猿蔵とい
う男は、菊作りの名人ですよ。あれはね、亡くなった珠世さんのお父さん、那須神社の神
官でしたがね、そのひとに教わったのです。菊は那須神社にとっても、犬神家にとっても、
由緒のふかいものですからね。ほら、|斧《よき》、琴、菊……」
「そうそう、その斧、琴、菊ですがね。あれにはどういういわれがあるんです。那須神社
にも、なにか関係があるんですか」
「ええ、そう、斧琴菊は最初、那須神社の、なんといいますか、一種の神器だったんです
ね。つまり、三種の神器ですね。東京の役者の、尾上菊五郎の家にも、斧琴菊という|嘉
《か》|言《げん》があるそうですね。那須神社の斧琴菊は、それとは別になんの関係も
ないのでしょうが、ほら、佐兵衛翁の恩人野々宮|大《だい》|弐《に》……珠世さんの
祖父にあたるひとですね、そのひとが、こういう言葉を考え出して、那須神社の守り言葉
にしたんですね。そして、黄金製の斧と琴と菊を作って、これを神器にしたんです。それ
を後年、佐兵衛翁が事業を|創《はじ》めたとき、まあ、前途を祝福するという意味でし
ょうね。守り言葉とともに、その神器を贈ったわけです。それがいま、犬神家の家宝にな
っているわけですよ」