耕助は、|蛙《かえる》を踏みつぶしたような声をあげて、思わずうしろにとびのいた。
笠原淡海――いや、佐武の首の斬りくちは、赤黒い血がいっぱいこびりついて、なにや
らもやもやとしたものがのぞいている。それは無残絵さながらの、|嘔《おう》|吐《と》
を催すような、いやらしい、おぞましい、ぞっとするような佐武の生首だったのだ。
「こ、こ、これは……」
凍りついたような数瞬の沈黙ののちに、金田一耕助があえぐようにつぶやいた。
「こ、殺されたのは、す、佐武君だったんですね」
古館弁護士と警官たちが、無言のまま、こっくりとうなずいた。
「そ、そして、犯人は首を斬り落として、菊人形の首とすげかえておいたのですね」
古館弁護士と警官たちが、また、こっくりとうなずいた。
「し、しかし……犯人は、な、なんだって、そ、そんな手数のかかることをやったんです」
だれも答えるものはない。
「首を斬り落とすということは、いままでにだってないことではない。首無し事件……そ
んな例はままあります。しかし、それは死体の身元をくらますためで、そんな場合、生首
は、いつもどこかへかくしてしまう。それだのに……それだのに、この首は、どうして、
こんなところへ麗々しくかざり立ててあるんです」
「金田一さん、問題はそこなんですよ。犯人は……それがだれだかわからないが……とに
かく、だれかが佐武君を殺した。しかも、そいつは、どういうつもりか、死体をそのまま
にしておかないで、首を斬り落としてわざわざここまで持ってきて、菊人形の首とすげか
えた、なぜでしょう」
「なぜなんです。ええ、どういうわけなんです」
「それは、……私にもまだわからない」
それは那須署の署長であった。名前を|橘《たちばな》という。|胡《ご》|麻《ま》|
塩《しお》の頭を短くつんで、ずんぐりと、背は高くないが、腹のつん出た、恰幅のいい
人物である。狸という?ダ名がある。
署長も金田一耕助を知っていたが、金田一耕助もそのひとを知っていた。
若林豊一郎の事件が起こった際、金田一耕助も取り調べをうけたことはまえにもいった。
橘署長はその後、金田一耕助の身元について、東京の警視庁へ照会したが、それに対する
返事というのが、耕助にとって、ひどく有利なものであったらしい。それ以来、橘署長は
半信半疑ながらも、この小柄で|風《ふう》|采《さい》のあがらない、もじゃもじゃ頭
のどもり男を好奇心とともに、一種の|畏《い》|敬《けい》の念をもって見ているので
ある。
耕助はもう一度、あの恐ろしい菊人形のほうへ眼をやった。ほの暗い舞台の奥に、物の
怪のように立っている首のない笠原淡海。その足下にころがっている、おぞましい佐武の
生首、しかもすぐそのそばには、佐兵衛翁や野々宮珠世、さては佐清や佐智の似顔人形が、
紅白とりどりの菊の衣装を身にまとい、つめたい顔をしてとりすましているのである。
市松格子の油障子を打つ、わびしいしぐれの音――鬼気肌にせまるとは、おそらく、こ
ういう場合につかう言葉なのであろう。
金田一耕助は、額ににじむ汗をぬぐった。
「で……」
「で……?」
「体のほうはどこにあるのですか。首から下の胴はどうしたのですか」
「いや、それはいま捜索中なのですがね。いずれ、そうたいして遠いところじゃないと思
う。ごらんのとおりこの『菊畑』はそう荒らされていないから、犯行の現場はどこかほか
にあるんですね。それがわかれば……」
橘署長はそこまでいって、ハタと口をつぐんでしまった。そのとき二、三人の私服が、
バタバタと駆けつけてくるのが見えたからである。私服のひとりが駆け寄って、なにか耳
打ちをすると、署長はぐいと眉をあげたが、すぐに耕助のほうをふりかえって、
「犯行の現場がわかったそうです。あんたもいっしょにいらっしゃい」
先頭を行く、署長たちの一団のあとにつづいて、金田一耕助は古館弁護士と肩をならべ
てあるいた。
「古館さん」
「はあ。……」
「あれ……佐武君の生首ですがね、あれはいったい、だれがいちばんはじめに見つけたん
ですか……」
「猿蔵ですよ」
「猿蔵……?」
金田一耕助は、おびえたように眉をひそめた。
「ええ、そう、猿蔵は毎朝一度、菊の手入れをして回るのですが、今朝もあの菊畑へ来て
みると……あのとおりの始末でしょう。そこでさっそく、わたしのところへ知らせて来た
のですが……そう、九時ちょっと過ぎのことでしたかね。わたしも知らせをきいて、びっ
くりして駆けつけてきたんですが、いや、そのときの騒ぎったら、たいへんでしたよ。犬
神家の一族は、みんなあの菊畑のまえに集まっていたのですが、竹子夫人が泣くやらわめ
くやら……まるで、気がちがったようなていたらくでしてね。それもまあ、無理のないこ
とでしょうが……」
「松子夫人や佐清君は……」
「ええ、やっぱり来てましたよ。しかし、佐武君の首を見ると、黙ってすぐに、居間のほ
うへとってかえしました。どうもわたしには、あのひとたちは苦手ですね。佐清君はあの
とおり、仮面で顔をかくしてますし、松子夫人は松子夫人で、御承知のとおりの男まさり、
めったに感情をおもてに出しませんからねえ。佐武君の首を見て、ふたりがどのような感
慨をもったか、わたしにはさっぱりわかりませんねえ」
金田一耕助は黙々として考えこんでいたが、やがて思い出したように、
「ときに、例の巻き物ですがね、佐清君の手型をおした……ひょっとすると佐武君が、あ
の巻き物を持っていたのじゃありませんか」
「いや、あの巻き物なら、わたしが預かってかえりました。このカバンに入っているんで
すがね」
古館弁護士は小わきにかかえた折りカバンをたたいてみせると急にしゃがれた声になっ
て、
「しかし、金田一さん、あなたのお考えじゃ、佐武君はあの巻き物のために殺された……
と、いうんですか」
金田一耕助はそれには答えず、
「あなたがその巻き物を預かっているということを、犬神家のひとびとはみんな知ってい
ましたか」