と書いてあった。
「沢井君、この住所氏名、控えておいたろうね」
「はあ、控えておきました」
「さっそく東京のほうへ照会するんだね。ほんとかどうか怪しいもんだが……で? 話の
つづきをしてくれたまえ」
署長にうながされて、
「はあ、いい忘れましたが、その客が来たのは八時ごろのことでございますが、それが十
時ごろになって、この近所に知り合いがあるから、ちょっと行ってくるといって出かけて
いきました。むろんそのときも、帽子と襟巻きで顔はすっかりかくしておりました。それ
から二時間ほどたって、ええ、十二時ごろのことでしたろう。そろそろ大戸をしめようか
と思っているところへ、その客がかえって来たんでございますが、いまになって考えてみ
るとなんとなくあわてていたようでしたね。しかし、そのときは、別にふかく気にとめた
わけでもなく……」
「ああ、ちょっと待って」
と、言葉をはさんだのは金田一耕助。
「そのときもやっぱり顔をかくして……?」
「ええ、もちろんでございますとも、結局、わたくしどもは一度もその客の顔を見なかっ
たわけで……それというのが今朝早く、五時ごろのことでしたろう。急に出発するからと
いって、宿を出ていったのでございます。いえお勘定のほうは、昨夜いただいております
が、なんにしても妙な客だ。なにかあるにちがいないと、うちのものとも話しているとこ
ろへ、その客の泊まっていった部屋を掃除にいった女中が、こんなものを見つけてまいり
まして……」
と、亭主がひろげてみせたのは、一本の日本手ぬぐい。それを見たとたん、署長も金田
一耕助も、思わず大きく眼をみはったのである。
復員援護、博多友愛会――と、染め出してあるところを見ると、あきらかにそれは、博
多の復員援護局で、復員者にわたされたものにちがいないが、その手ぬぐいにはべったり
と、ドス黒い血の跡が……あきらかに、血に染まった手をふいたものにちがいない。
金田一耕助と橘署長は、思わず顔を見合わせた。
そのとき、ふたりの頭脳にひらめいたのは、最近に博多へ復員してきた、仮面の佐清の
ことである。しかしその佐清は昨夜の八時から十時ごろまで、奥の十二畳の座敷のなかで、
犬神家の一族に、とりかこまれていたはずではないか。
疑問のX
柏屋の亭主、志摩久平の証言は、|俄《が》|然《ぜん》、犬神家の最初の惨劇に、大き
ななぞを投げかけたのだが、いまその証言の内容を、もう一度ここで要約してみよう。
昨夜、犬神家から半里ほどはなれた下那須のはたご屋、柏屋へやってきて、一夜の宿を
求めた復員者風の男。――いまかりにその男をXとすると。……
Xが柏屋へやってきたのは八時ごろのことである。
Xはだれにも絶対に顔を見せなかった。
Xが名乗るところによると、名前は山田三平、住居は東京都麹町区三番町二十一番地、
職業は無職。
Xは十時ごろ、この近所に知り合いがあるといって、宿を出た。
Xが柏屋へかえってきたのは、十二時前後のことだったが、そのときかれの様子には、
なんとなく、あわてふためいているようなところがあった。
Xは今朝五時ごろ、急に用事を思い出したといって、宿を早立ちした。
Xの泊まっていった座敷から、血染めの手ぬぐいが発見されたが、その手ぬぐいには、
「復員援護、博多友愛会」と、染め出してあった。
――と、いうのが、Xなる人物の、昨夜から今朝へかけての行動のあらましだが、これ
を昨夜、犬神家で起こった殺人事件と照らし合わせてみると、そこにいろいろ、興味ふか
い一致点を見いだすことができるのである。
まず第一に、佐武の殺された時刻だが珠世の証言によると、それはだいたい十一時十分
以後のこととみてよいようである。したがって、十時ごろ、下那須の柏屋を出たXはその
ころまでには十分、犬神家へ来ていることができたはずである。
それから第二はあのボートだ。あの血まみれボートが発見されたのは、下那須の観音岬
のほとりだということだが、そこから柏屋までは時間にして、五分とはかからぬ距離なの
である。したがって、いまかりに、だれかが十一時半ごろ、佐武の首無し死体をボートに
つんで、ここから|漕《こ》ぎ出し、途中で死体を捨てるために、いったん沖へ出ていき、
それから観音岬へむかったとしても、十二時ごろまでに柏屋へ、たどりつく余裕は十分あ
るとみられるのだ。つまり、疑問のXの行動と、昨夜の殺人事件とは、時間的にも一致す
るところが多いのである。
「金田一さん、こいつは妙なことになってきましたな、そうすると、そいつは佐武を殺し
に来たというわけかな」
「署長さん、そう断定してしまうのは、まだ早いでしょうが……」
金田一耕助は、なにかしら、深いところをのぞくような眼つきをしながら、
「しかし、そいつが佐武君を殺しに来たかどうかは別として、つぎのことだけはたしかで
しょうね。つまり、佐武君の首無し死体をボートにつんで、ここから漕ぎ出したらしいと
いうことは。……そして、ぼくはそんなところに、なんともいえぬ深い興味をおぼえるん
ですがね」
「と、いうのは?」
橘署長はさぐるような眼で耕助を見る。
「署長さん、この事件で首から下の胴をかくさねばならぬという理由は、どうしても考え
られない。……と、いうことを、さっきからぼくは、何度も力説しましたね。なにしろあ
あして生首のほうは、麗々しく菊人形の首とすげかえてあるんですから、胴のほうをかく
したところで無意味じゃありませんか。ところが、その無意味なことを、しかも、非常な
危険をおかしてやっている。なぜだろう。なぜ、そんな必要があったのだろう。……さっ
きからぼくはそのことを考えつづけていたんですが、いま、柏屋の亭主の話をきいている
うちに、やっとその理由が、わかるような気がしてきたんです」
「その理由というのは……?」
「署長さん、柏屋の亭主はなぜ、Xなる人物のことをこうも速やかにとどけて出たと思い
ます? 血染めの手ぬぐいという、れっきとした遺留品があったからじゃありませんか。
あの手ぬぐいさえなければ、Xなる人物の行動に、多少、怪しい節があったとしても、こ
う速くとどけて出やぁしなかったと思いますよ。あの連中ときたら、とかく係りあいにな
ることをなによりも恐れるんですからね。してみるとXなる人物は、宿の亭主に一刻も早
く、警察へとどけて出ろといわぬばかりに、血染めの手ぬぐいをおいていった……としか
思えないじゃありませんか。まさかあれほど重大な証拠物件を、うっかり忘れていったな
んてことは考えられませんからね」