ああ、珠世と猿蔵!
橘署長が疑うのも無理はないのだ。珠世こそ、佐武殺しのもっとも強い動機をもってい
ると同時に、昨夜はまた絶好のチャンスをも持っていたのだ。
佐武を展望台へ呼び出したのは珠世だった。しかも、その時刻は、十時に下那須の宿を
出た疑問のXが、十分間にあう時刻である。ボートのことなら、猿蔵がだれよりも、いち
ばんよく知っていただろう。
だが、橘署長の疑いをあおるのは、そういう|末梢《まっしょう》的な事実ばかりでな
く、もっと大きな、根本的な問題だったのだ。すなわち、珠世という女性自身の問題なの
である。彼女ならばこういう計画をたてるだけの|狡《こう》|知《ち》を持っており、
しかも、猿蔵という男は、彼女の|命《めい》とあらば、どんなことでもやりかねない盲
目的な忠実さを持っているのである。
金田一耕助はあの美しい珠世と、醜い巨人の奇妙な対照を思い出すと、なにかしら、全
身に|粟《あわ》|立《だ》つような恐怖をおぼえずにはいられなかった。
琴の師匠
那須湖畔にある犬神家の本邸というのが、非常に複雑な、迷路のような建て方になって
いるということは、まえにもいっておいたが、松子夫人と佐清は、この迷路の奥の袋小路
のような離れに住んでいるのである。
袋小路のような離れ――と、いっても、それはけっして狭いことを意味しているのでは
ない。どうして、どうして、部屋数だって五間もあり、廊下でもって母屋につながってい
るのだが、それとは別に、ちゃんと玄関までついている。
つまり、この離れの住民は、なにかのことで母屋と気まずくなったとき、廊下を鉄のカ
ーテンで閉ざしてしまうと全然、独立した生活が送れるようになっているのである。しか
も|子《こ》|薯《いも》に子薯がつくように、この離れにはまた四畳半と三畳の、茶室
風の離れがついており、そこが佐清の居間になっていた。
佐清は復員して、この本邸へ入って以来、ほとんどこの居間を出ることはなかった。来
る日も来る日も、かれはこの四畳半に垂れこめて、母の松子夫人と口をきくことすらごく
まれにしかないのである。
あの美しいけれど、生気の表情に欠けたゴムの仮面は、いつもほの暗い部屋のすみを凝
視しつづけて、いったい、かれがなにを考えているのか、だれにも察しようがないのであ
る。そして、それだけにかれの存在は、なんともいえぬ無気味さとなって、犬神家の一族
の上にのしかかっているのであった。
母の松子夫人ですら、この物言わぬゴムの仮面を見るごとに、ゾーッと総毛立つのをお
ぼえるくらいだ。そうだ、松子夫人ですら、この仮面の男を恐れているのだ。むろん彼女
はできるだけ、それをおもてに現わさぬようにつとめているけれど。……
いまも佐清は四畳半の|文机《ふみづくえ》のまえに座って、おもてもふらずにある一
点を凝視している。かれの視点のさきには、障子をひらいた丸窓があり、その丸窓越しに、
荒れ狂う湖水が見える。
雨は、風は、いよいよ激しさを加えるばかり、湖水の表面は|坩《る》|堝《つぼ》の
ようにたぎり立っているが、その風雨とたたかいながら、ランチが一艘、モーターボート
が二、三艘うかんでいる。おそらく、佐武の首無し死体をさがしているのだろう。
佐清はいつか文机の上に両手をついて、伸びあがるようにして、丸窓から外を見ていた
が、そのときだった。|濡《ぬれ》|縁《えん》づたいにゆけるこの離れの母屋から、母
の松子夫人の声がきこえた。
「佐清や、窓をお閉めなさい。雨が降りこみますよ」
佐清はそのとたん、ギクッとしたように肩をふるわせた。しかしすぐすなおに、
「はい」
と、答えて、窓のガラス戸を閉めると、がっくり肩を落としたが、その拍子に、なにを
見つけたのか、またもやかれの全身は針金のようにピーンと緊張したのである。
佐清の凝視しているのは、文机の表面である。よくふきこまれた机の上に、くっきりと
十の指紋が押されている。さっき伸びあがって、窓の外をながめていたときに、何気なく
ついた両手の指の跡なのである。佐清はなにかしら、それが恐ろしいものででもあるよう
に、しばらく凝視を続けていたが、やがて|袂《たもと》からハンケチを取り出すと、て
いねいにそれをふき消した。一度だけでは安心できないのか何度も何度も|拭《ぬぐ》い
をかけた。……
佐清がそんなことをしているとき、この離れの母屋にあたる十畳の座敷では、松子夫人
が不思議な人物と向かいあっていた。
そのひと、――年齢は松子夫人より上か下か、切り髪にした老婦人で、黒っぽい地味な
着物の上に、黒っぽい地味な|被《ひ》|布《ふ》を着ている。そして、バセドー氏病の
ように、片眼はとび出し、片眼はひっこんでつぶれている。おまけに額に大きな傷がある
ので、本来ならば非常に険悪な相に見えるべきはずのところ、それがそうは見えないで、
上品で、どことなく奥ゆかしく見えるのは、体の奥底からにじみ出る修練と教養の美しさ
のせいだろう。
このひとは|宮《みや》|川《かわ》|香《こう》|琴《きん》といって、三月に一度
か半年に一度東京から来る|生《いく》|田《た》流の琴のお師匠さんなのである。この
へんから、伊那へかけて、かなりお弟子を持っており、那須へ来ると、いつも犬神家を根
城として、お弟子さんの家をまわって步くのであった。
「それで、お師匠さんは、いつこちらへお着きになりました」
「昨夜、着いたんでござんすよ。すぐこちらへと思ったんですけれど、少し時刻がおそか
ったものですから、御迷惑をおかけしてはと思って、那須ホテルへ泊まりましたのでござ
んすよ」
「まあまあ、そんな御遠慮には及びませぬものを」
「いいえ、奥さまおひとりならよろしいのですけれど、なんですか親戚の方など、おおぜ
い来ていらっしゃるということを伺ったものですから。……」
香琴師匠は不自由な眼をしわしわさせながら、静かに語る。細い、きれいな声で、落ち
着いた語りくちである。
「でも、ホテルへ泊まってようござんした。聞けば昨夜、こちらさんでは、なんだか恐ろ
しいことがござんしたとやら」
「ええ、お師匠さんもお聞きになりましたか」
「はい、聞きましてござんすよ。ほんに恐ろしいこと。……それでわたし、どうせこちら
さん、お取りこみでござんしょうから、このまま伊那へ立ってしまおうかと思ったんです
けれど、こちらへ来ていながら、ごあいさつにあがらないのもと思いまして……ほんとに
とんだことでござんしたね」