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犬神家族-第五章 唐櫃の中(6)
日期:2022-05-31 23:59  点击:228
こうして警察の焦燥のうちに、五日とすぎ、七日と過ぎて十一月二十五日。ちょうど佐
武が殺されてから十日目のことだったが、ここにまた、恐ろしい第二の殺人事件が突発し
たのである。しかも、不思議なことにはこんどの事件の場合でも、そのキッカケをつくっ
たのは、やはりあの美しい珠世であった。
いま、その|顛《てん》|末《まつ》をお話ししよう。
十一月二十五日といえば、山国の湖畔では、もうすっかり冬景色である。湖水の向こう
に遠く望まれる、北?ルプスの連峰は、日ごとに白さを加えていく。朝など、どうかする
と湖水の岸は、薄氷の張っていることもあった。
しかし、それでいて、お天気のよい日の日中など、こんなに気持ちのよいことはなかっ
た。おそらく、一年じゅうでそのころが、いちばんさわやかな季節であろう。風は多少つ
めたくとも、|日《ひ》|向《なた》へ出ると、ジーンと体の心まであたたまりそうな温
かさ。
珠世はその日、この日光をしたって、湖水へボートを|漕《こ》ぎ出したのである。む
ろんひとりで、猿蔵にも内緒であった。いつかのあのボートの事件以来、猿蔵は絶対に、
珠世にボート遊びを許さない。それを知っていて珠世はまるで子どもが抜け遊びに出るよ
うに、こっそりボートを漕ぎ出したのだ。
珠世はあの事件以来、すっかり心が|鬱《うっ》|屈《くつ》している。来る日も来る
日も、疑いぶかいお巡りさんに質問攻めにされる。犬神家のひとびとからは、憎悪と、敵
意と、|嫉《しっ》|妬《と》の視線を、まるで|火《ひ》|箭《や》のように浴びせか
けられる。珠世は息がつまりそうであった。
だがそれにもまして彼女がたまらなかったのは、ちかごろの、佐智一家の攻勢である。
以前は見向きもしてくれなかった佐智親子が、ちかごろは、いやらしいほどしっぽをふ
ってつきまとう。珠世はそれが身ぶるいの出るほどいやだったのだ。
久しぶりに湖水へ出た珠世は、なにかしら、心がはればれするような気持ちだった。な
にもかも打ち捨て、なにもかも忘れて、このままどこまでも漕ぎ出していきたいとさえ思
った。
風はいくらか冷たいが、陽はあたたかでさわやかである。珠世はいつか、遠く湖心まで
漕ぎ出していた。
ワカサギの季節も終わったのか、湖水の上には釣り舟も見えぬ。遠く下那須のあたりで
漁船が一艘、網を打っているのが見える。そのほかには舟らしいものは一艘も見えなかっ
た。シーンと静かな昼さがりのひととき。
珠世はオールをあげると、ごろりとボートのなかに仰向けになった。しみじみと、久し
ぶりに仰ぐ空は、びっくりするほど遠く、高く、じいっとそれに見入っていると、なにか
しら引きいれられるような気持ちである。珠世はそっと眼を閉じた。と、いつかその|瞼
《まぶた》のあいだから、淡い涙がにじみ出してくるのである。
珠世はいったいどれくらいそうしていたろうか。ふと気がつくと、遠くのほうからけた
たましいモーターボートのエンジンの音がきこえてくる。はじめのうち、珠世は気にもと
めなかったが、しだいにその音がこちらのほうへ近づいてくるので、ふと起きなおってふ
りかえった。
モーターボートに乗っているのは佐智である。
「こんなとこにいたんですか。ずいぶん方々探しましたよ」
「まあ、なにか御用ですの」
「ええ、いま、署長と金田一耕助という男がやってきて、なにか重大な話があるから、す
ぐ集まってくれといってるんです」
「ああ、そう、それじゃすぐかえります」
珠世がオールを取りなおすと、
「ダメですよ、ボートじゃ」
と、佐智はモーターボートをそばへ寄せながら、
「さあ、これへお乗りなさい。署長はとても急いでいるんです。寸刻を争うことだからっ
て……」
「でも、このボートは……?」
「それはあとから、だれかにとりにこさせたらよろしい。さあ、早くお乗りなさい。ぐず
ぐずしていると署長め、どんなにおこり出すかわかりませんよ」
佐智の態度にも言葉にも、少しも不自然なところはなかった。それにまた、いかにもあ
りそうなことだったので、珠世はついだまされたのである。
「そうですか、それじゃお願いいたします」
珠世はボートを、モーターボートのそばへ漕ぎ寄せた。
「そうそう、オールはあげておきなさい。流れてしまうとやっかいだから。さあ、ぼくが
ボートをおさえていてあげますから、いいですか。気をつけて……」
「ええ、大丈夫ですわ」
珠世は上手に乗り移ったつもりだったけれど、それでも一艘の舟がぐらりと大きくゆれ
て、
「危ない!」
よろめく拍子に珠世は佐智の胸に倒れかかったが、その|刹《せつ》|那《な》、かばう
と見てのばした佐智の|猿《えん》|臂《ぴ》がやにわに珠世の鼻孔をおおうた。しかも、
その手にはジットリぬれたハンケチが握られている。
「あ、な、なにをなさるんです」
珠世は強く抵抗する。しかし、抱きすくめた佐智の腕はがっきと彼女の体をおさえ、し
かも、あの湿ったハンケチは、いよいよ強く、鼻孔を圧してくる。
なにやら甘酸っぱいにおいが、つうんと鼻から脳天へ抜けた。
「あ、あ、あああああ……」
珠世の抵抗はしだいに微弱になり、やがてぐったりと佐智の腕のなかで眠りこけてしま
った。
佐智はそっと珠世の乱れ髪をかきあげてやる。それから軽く額にキッスをするとニヤリ
と、歯をむき出してわらった。
ふたつの|瞳《ひとみ》が、たぎりたつ情欲のために、|燐《りん》をもやしたように
ギラギラ光っている。佐智はゴクリと生つばをのみ、|獣《けだもの》のようにペロリと
舌なめずりをした。
それから珠世を寝かせると、背中を丸くして、モーターボートを走らせはじめた。
犬神家とはまるで反対の方角へ。……
空には|鳶《とび》が一羽、ゆるく輪をえがいていたが、そのほかにはだれひとり、こ
の出来事に気づいたものはなかったのである。

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