どこかで、だれかが見ている!――そんな気が強くしたからである。
一瞬――二瞬――
佐智の心臓はガンガン鳴った。額にはねっとりと、粘っこい汗が吹きだしてきた。
だが……別に変わったことも起こらない。あたりはしんと静まりかえって、物音とては
風にそよぐ葦の葉ずれのささやきばかり。
佐智はおそるおそる顔をあげて、葦のあいだから、向こうに見える洋館の窓を仰いだ。
さっき、たしかにその窓に、物の動くけはいを感じたからである。
風が吹いた。
と、|盲《めし》いたように、ガラス戸をもぎとられた窓の中で、ハタハタとくろずん
だカーテンがゆれた。カーテンは、どんなボロよりもみじめに裂けて、風が吹くたびに、
バタバタと窓がまちをたたく。また、これほどボロになっているからこそ、盗まれもせず、
まだこの古屋敷に残っているのだ。
佐智は腹立たしげに舌打ちすると、改めて珠世の体を抱き直した。それからもう一度あ
たりの様子を偵察すると、|脱《だっ》|兎《と》のごとく葦の間を出て、古屋敷のベラ
ンダから広間のなかへとびこんだ。
プーンと鼻をつく|黴《かび》のにおい。壁から天井からまるで垂れ飾りのようにぶら
下がっている|蜘《く》|蛛《も》の巣。
湖水には無数の羽虫がわくから、その羽虫をねらって、蜘蛛がいたるところに網を張っ
ているのである。佐智がとびこんだ|刹《せつ》|那《な》、蜘蛛の巣にひっかかった羽虫
のうち、まだ生き残ったやつが、いっせいにバタバタやり出したから、ブラ下がった蜘蛛
の巣の|総《ふさ》が、嵐に会ったようにはげしくゆれた。そして、それと同時に魚のく
さったようななんともいえぬ異臭が、ツーンと鋭く鼻をつく。
佐智は顔をそむけながら、ホールを見て、階段に足をかけた。だが、そのとたん、かれ
はふたたびギョッとして、そこに立ちすくんだのである。
ちかごろだれか、その階段をのぼっていったものがあるにちがいない。べったりついた
泥靴の跡。……
佐智はまるでそれが、恐ろしいものでもあるかのように、息をころして凝視していたが、
すぐなあんだというように、大きなため息をついた。泥靴のあとは、それひとつではない。
玄関から廊下へかけて、また新しい数種類の靴跡が、あたりいちめんべたべたとついてい
るのである。
佐智はこの間、お巡りさんたちが復員姿の男を求めて、この空き屋敷へ手を入れたこと
を思い出した。なんだそれじゃ、この足跡は、お巡りさんたちの足跡なのか。……
佐智はほっと胸をなでおろすと、できるだけ足音をころして階段をのぼりはじめる。ち
ょっと階段につまずいても、家じゅうにひびきわたるような音を立てる。佐智はそのたび
に肝を冷やした。
二階も階下に負けず劣らず、殺風景をきわめている。まえにもいったように、窓ガラス
という窓ガラスは、かたっぱしからもぎとられているし、ド?の|蝶番《ちょうつがい》
さえ、満足に残っているのは少ない。
佐智はあらかじめ見当をつけておいたとみえて、それらのド?のひとつを足で開いて、
珠世の体を運びこんだ。装飾もなにもない、ガランとした殺風景な部屋。それでも部屋の
片すみに鉄製のベッドと頑丈な椅子がおいてある。ベッドには詰め物のはみ出したわら|
布《ぶ》|団《とん》がしいてあったが、むろん、夜具だの、毛布だのの類はない。すべ
てがさむざむとした|廃《はい》|墟《きょ》のたたずまいなのである。
佐智はそのわら布団の上へ、そっと珠世の体をおいた。そして、流れおちる汗をぬぐい
ながら、相変わらず、狐のようによく動く眼で、絶え間なくあたりの様子に気をくばって
いる。
万事好都合らしい。だれも佐智がこのような廃墟へ、珠世をつれこんだことを知ってい
るものはない。すべてはこのひとときのうちに決せられるのだ。それが終わってしまった
なら、珠世がどんなに泣こうがわめこうが、万事、自分の思いどおりに運ぶだろう。そし
て、そのときこそ自分は、色と金と権力の、三つを同時に握ることができるのだ。
佐智はふるえあがった。武者ぶるいというやつかもしれない。興奮のために口のなかが
からからに乾いて、ひざ頭ががくがくふるえた。
佐智はわななく指でネクタ?をとる。それからもぎとるように上衣をとり、ワ?シャツ
をぬぐと、それを椅子の上に投げ出した。少し明るすぎるのに気がさすが、あいにく窓に
は扉もなければカーテンもない。
佐智はちょっと思案顔に、爪をかみながら部屋のなかを見回していたが、
「なに、かまうものか。だれが見ているわけじゃなし、……それに御本尊はよく寝ていら
っしゃら?」
ベッドの上に身をこごめて、佐智は一枚一枚、珠世の衣類をはいでいく。なだらかな肩
から、ふくよかな胸部の隆線が現われてくるにしたがって、佐智の興奮は、もうおさえる
ことができないらしい。
指先がおこりをわずらったように、わなわなふるえて、嵐のような息遣いである。
……と、このときだった。
どこかで、コトリというかすかな音。それにつづいて、ギーッと床を踏み鳴らす音。
佐智は|蝗《いなご》のように、ベッドのそばからとびのいた。そして、襲いかかる敵
を待ち伏せするように身構えしてじっとあたりの気配をうかがっている。物音はしかし、
それきり二度とは聞こえない。
佐智はそれでもまだ心配だったのか、部屋を出て、家のなかを見て回った。どこにも異
状はない。ただ、台所のすみに、|田鼠《たねずみ》の巣があって、子鼠がうまれている
のを発見した。
(なあんだ、こいつの騒ぐ音だったのか)……
いまいましそうに舌打ちして、階段をのぼってきた佐智は、なにげなくド?をあけよう
としてギョッと息をのんだ。
さっき自分はここを出ていくとき、ド?をあけっぱなしにしていったはずである。それ
がこうして締まっているのはどうしたのだろう。なにかのはずみで、しぜんにしまったの
だろうか。
佐智は取っ手に手をかけると、用心ぶかく、ド?をひらいた。部屋のなかは別に異状は
ないらしい。佐智はほっとして、ベッドのそばへ步みよったが、突然、頭のてっぺんから、
鉄の|楔《くさび》でもうちこまれたような戦慄をおぼえた。むき出しになっていた、珠
世の胸の上に、だれか上衣をかけていったものがある!
佐智は靴のうらが床に吸いついてしまったように、身動きができなくなった。かれは元
来大胆な男ではない。いやいや、至って小心者なのだ。それだけに、今日この行動に出る
には、非常な決心がいり、いよいよその行動に着手してからも、絶えず、ビクビクしつづ
けていなければならなかったのだ。
佐智は全身にビッショリ汗をかいていた。口のなかがからからに乾いて、のどの奥がや
けるようであった。なにかいってみたいと思ったが、舌がもつれて言葉が出なかった。
「だれか……だれかいるのか。……」
やっとのことで、かれはそれだけのことをいった。
と、それに応じるかのように、隣室へ通じるド?の向こうで、ギーッと床の鳴る音がし
た。
ああ、だれかいる、……隣の部屋に。……自分はなぜ、それをもっと早くたしかめてお
かなかったのだろう。……さっき窓からのぞいていた眼……あれはやっぱり錯覚ではなか
ったのだ。……そいつがこの家の、しかも、この隣の部屋にかくれているのだ。……おお、
自分はなぜもっと早く、それをたしかめておかなかったろう。……
「だれだ! 出てこい、そこにかくれているのはだれだ……」
言下にド?がひらきはじめた。少しずつ、ごくゆっくりと。……そして、間もなく佐智
は見たのである。そこに立っている男の姿を。
それは戦闘帽をまぶかにかぶり、マフラで顔をかくした、復員姿の男であった。
それから一時間ほどのちのことである。
犬神家にいる猿蔵のもとへ、不思議な電話がかかってきた。
「猿蔵さんですか。猿蔵さんですね。猿蔵さんにちがいありませんね。いや、こっちはだ
れでもいいです。実は珠世さんのことについて、きみの注意を喚起したいと思いましてね。
珠世さんはいま豊畑村の空き屋敷にいます。ほら、ずっとむかし犬神家が住んでいた家で、
階段をあがって左のとっつきの部屋。すぐ迎えにいってあげてください。ああしかし、あ
まり騒ぎ立てないほうがいいですよ。人に知れると、珠世さんの恥辱になることですから
ね。万事、きみひとりで取りはからったらいいでしょう。ああ、それから珠世さんはたぶ
んまだ眠りつづけていると思いますが、その点については心配しなくてもいいです。薬が
きいているのだから、時間が来るとしぜんに覚めますからね。じゃ、お願いします。一刻
も早いほうがいいですよ。ではさようなら」