第六章 琴の糸
夢うつつとなく聞いていた小鳥のさえずりが、しだいに現実の世界にわりこんできて、
珠世はようやく眼覚めはじめている。
なんとなく、もの苦しい圧迫を、無理矢理に向こうへ押しやろうとして、無意識に両手
を出しておきあがろうとしているうちに、珠世はとうとう眼が覚めた。
眼が覚めても、しかし、珠世はとっさのうちに、自分の立場に理解がなくて、しばらく
はポカンと眼を見はっていた。
なんとなく頭が痛くて、体の節々がだるい。
起きるのも大儀である。いつもの朝の眼覚めとちがっている。ひょっとすると、病気に
とりつかれたのではあるまいか。……
そんなことを考えているうちに、さっと珠世の脳裏によみがえってきたのは、あの湖心
での出来事である。ぐらりと傾いたモーターボート、佐智に抱きすくめられたとたん、鼻
孔を覆うたあのしめったハンケチ。……それからあとはいっさい無である。
珠世は突然、ベッドの上から跳ね起きた。悲鳴がのどをついて出ようとするのをやっと
おさえた。悲鳴はやっとおさえたけれど、全身がふるえてやまなかった。皮膚の表面が熱
くなったり、寒くなったりした。
珠世はパジャマのまえをかきあわせ、じっと自分の体内を凝視する。
これが?レの証拠ではないだろうか。この頭の重さと体のけだるさ……これが純潔をふ
みにじられた証拠ではあるまいか。
珠世ははげしい怒りに体がふるえた。怒りのあとから、なんともいえぬ悲しみと絶望が
こみあげてきた。
珠世はベッドの上に座ったまま、身動きしないで眼を見はっている。絶望のために、あ
たりがまっ暗になったような気持ちだった。
だが、そのうちに珠世は、妙なことに気がついた。彼女がいまいるのは、自分自身の寝
室であり、彼女が寝ているのは、彼女自身のベッドであった。パジャマもちゃんと自分の
ものを身につけている。
これはいったい、どうしたことであろうか。
佐智は自分を|辱《はずか》しめるのに、この部屋へつれこんだのであろうか。いやい
や、そんなことは信じられぬ。と、すれば、佐智はかれの邪悪な望みを果たしたのちに、
自分をここへつれてかえったのであろうか。……
珠世の胸に、また新しい、悲しみの憤りがこみあげてくる。
そのとき、ド?の外でかすかな物音が聞こえた。珠世はあわてて、毛布を胸にまきつけ
ながら、
「だれ?」
と、鋭く尋ねた。すぐに返事がなかったのでもう一度、
「だれかそこにいるの」
と、重ねて尋ねると、
「ごめんなせえ。お嬢さん、ご気分はどうかと心配になったもんだで……」
猿蔵の声であった。相変わらず素朴な飾り気のない調子だったが、やさしい懸念があふ
れている。珠世はすぐには返事ができなかった。
猿蔵は知っているのだろうか。自分が佐智のために女としてこの上もない恥辱を負わさ
れたかもしれないことを。……
「ええ、あの、いいのよ。別に変わったことはないのよ」
「へえ、それはけっこうで、……ときに、お嬢さん、それについてぜひおまえさんのお眼
にかけたいものがございまして……へえ、一刻も早く、お眼にかけたほうがいいと思うん
ですが……いえ、一刻も早くご覧になったほうが、お嬢さんもご安心がいくと思うんです
が……」
「なんなの、それ?」
「紙きれでごぜえます。小せえ紙きれでごぜえます」
「あたしがその紙きれを見ると、安心ができるというの」
「へえ、さようで」
珠世はちょっと思案をしたのち、
「それじゃ、ド?のすき間からさしこんでちょうだい」
彼女はまだだれにも会いたくなかったのだ。猿蔵にさえ、顔を見られたくなかったので
ある。
「へえ、それじゃ、ここからさしこんでおきますだで。……それをご覧になったら安心で
きます。落ち着いてからいずれゆっくりお話ししますが、まあ、しばらく、静かに寝てお
いでなさいまし」
まるで乳母のように優しい、いたわりに満ちた調子である。珠世はふっと涙ぐんだ。
「猿蔵、いま、何時ごろ」
「へえ、十時ちょっと過ぎでございます」
「それはわかっているけれど……」
枕元の時計を見ながらつぶやく、たゆとうような珠世の声に、猿蔵もはじめて気がつい
たように、
「ああ、これはおらが悪かった。おまえさんには見当がつかねえんだな。へえ、いまは昨
日の今日でごぜえますよ。あれから一晚あけて、いまは朝の十時過ぎ……おわかりかな」
「ああ、そう」
「それじゃ、紙きれをここにさしこんでおきますだでな、これを読んでゆっくり休んでお
いでなせえまし、おらは向こうで、署長が呼んでいなさるようだで、ちょっと行ってまい
りますだ」
猿蔵の足音が廊下へ出て、しだいに遠ざかっていくのを待って、珠世はベッドからすべ
りおりた。いま猿蔵のさしこんでいった紙きれが、ド?のすきからのぞいている。
珠世はそれを持ってベッドへもどった。手帳の紙を引き裂いたような小さな紙片に、わ
かりにくい字でなにか書いてある。珠世は枕元の電気スタンドに灯をつけた。
それは、どう見ても、筆跡をくらますためとしか思えない、妙にギクシャクと、しゃち
こばった字であった。珠世はそれを読んでいくうちに、さっと全身の冷えていくのを覚え
たが、すぐまたつぎの瞬間、体じゅうが燃えるように熱くなるのを感じた。
そこにはこんなことが書いてある。
――佐智君は失敗した。珠世さんは現在もいままでと変わりなく純潔であることを証明
す。
[#地から2字上げ]影の人
ほんとうだろうか、これは。……いったい、影の人とはどういう人だろう。いやいや、
それより猿蔵は、どうしてこんな紙きれを持っているのだろうか。……