「猿蔵! 猿蔵!……」
珠世はあわてて猿蔵の名を呼んだが返事がないことはもちろんである。
珠世はちょっと思案をしたのちに、ベッドからすべりおりると、大急ぎで着物を着替え
た。まだ、少し体がふらつくのだが、そんなことをいっている場合ではない。この疑惑――
この恐ろしい疑惑から一刻も早く解放されなければならぬ。
着物に着替えて、簡単に朝の化粧をすませると、珠世は猿蔵を求めて廊下へ出た。猿蔵
の姿は離れのどこにも見当たらなかった。
そうそう、署長さんが来て、呼んでいるとかいってたっけ――、思い出した珠世が、廊
下づたいに母屋のほうへやってくると、広間のド?がひらいて、なかにおおぜい集まって
いるのが見えた。
「あら、珠世さま!」
珠世の姿を見つけて、いちばんにとび出してきたのは小夜子であった。
「お加減がお悪いとうかがってましたけど、いかがですの。ほんとうになんだか、お顔の
色がお悪いわ」
そういう小夜子自身も、ひどくすぐれぬ顔色である。
「ええ、ありがとう。小夜子さま」
珠世は広間のなかをのぞいてみて、
「なにか、またございましたの」
と、|眉《まゆ》をひそめた。
広間のなかには橘署長や金田一耕助をはじめとして、犬神家の一族が、全部顔をそろえ
ている。しかも、佐智の姿が見えないのと、猿蔵が妙に片意地な面構えをしてひかえてい
るのが、ふっと珠世の心をくもらせた。
「ええ、あの、ちょっと……」
小夜子は物問いたげな眼で、珠世の顔をうかがいながら、
「佐智さんの姿が見えませんのよ。昨夜から……」
珠世はパッと|赧《あか》くなった。小夜子は昨日のことを知っていて、自分にかまを
かけようというのであろうか。
「はあ、それで……?」
「それで、梅子叔母さまや、幸吉叔父さまが心配なすって、署長さんにお電話したんです
の。ひょっとするとまた……なにか変わったことが起こったんじゃないかしらって……」
小夜子の顔は心痛のためにかわいそうなほどゆがんでいる。おそらく、佐智|失《しっ》|
踪《そう》のため、いちばん心をいためているのは、両親の梅子や幸吉よりも、小夜子自
身だったろう。
そこへ広間のなかから、にこにこしながら出てきたのは橘署長であった。
「珠世さん、気分が悪いということでしたが大丈夫ですか」
「はい、あの……」
「もし、よかったら、こっちへお入りになりませんか。実はあんたに、助けていただきた
いことがございましてな」
珠世は署長の顔を見た。それから広間のなかにいる猿蔵のほうへ眼をやった。猿蔵はお
こったように眼をいからせて珠世の顔を見つめている。
珠世はたゆとうような眼で署長を見ながら、
「あの……いったい、どういうことでございましょうか」
「まあ、こっちへお入りなさい」
珠世は仕方なしに広間へ入ると、署長の指さす椅子に腰をおろした。小夜子は気遣わし
そうにそばへよってきて、椅子の後ろに立った。佐智の両親や、竹子夫婦、それから松子、
佐清の親子が、それぞれの場所に、思い思いの格好で腰をおろしている。金田一耕助は少
しはなれたところに立って、さりげなく一座の様子を見守っていた。
「お助け願いたいというのはほかでもありません。いや、小夜子さんからお聞きになった
でしょうが、佐智さんの行方が昨夜からわからないんです。なんでもないことかもしれな
いが、こんな場合ですから、御両親がとても御心配なすって、至急行方をさがしてくれと
おっしゃるんです。ところが……」
署長はさぐるような眼で、珠世の顔を見つめながら、
「いろいろ調べているうちに、猿蔵君がそれを知っているんじゃないかと思われる節があ
る。ほかの奉公人がそういうんですね。そこでいま猿蔵君にきいているんですが、猿蔵君
のいうのに、これはお嬢さんにも関係のあることだから、お嬢さんのお許しが出ない以上
は、絶対にいえない。……と、こうがんばっているんです。それで、お願いというのはひ
とつあなたの口から、猿蔵君にそれをいうようにおっしゃっていただけませんか」
珠世はさっと、全身の血が冷えていくのをおぼえた。彼女ははじめて自分が容易ならぬ
場面へ顔を出したことに気がついたのだ。署長はなにも知らない。なにも知らないからこ
そ、このように無慈悲なことを、平気で頼めるのだろう。珠世は煮え湯をのむような思い
で眼を閉じたが、そのとき強く彼女の腕を握るものがあった。眼をあげてみると小夜子で
あった。小夜子は涙をたたえた眼で、哀願するように珠世を見つめている。珠世は掌のな
かに持っていた、あの「影の人」の手紙を思わずかたく握りしめた。
「はあ、あの――そのことならば、あたしも猿蔵に聞きたく思っていたところでございま
す。でも、猿蔵の話をきくまえに、あたしの話からきいていただきましょう。そうしなけ
れば、話が前後してよくおわかりにならないかもしれませんから」
珠世の|双頬《そうきょう》からは、すっかり血の気がひいていた。膝の上においた両
手が、かすかにブルブルふるえていた。しかし、彼女はよどみなく湖心における昨日の経
験を一同のまえに物語った。もっともそれは、そんなに長くかかる話ではなかったけれ
ど。……
話を聞きおわった一同は、|愕《がく》|然《ぜん》として珠世の顔を見直した。佐智
の両親、梅子と幸吉は意味ありげに顔を見合わせている。橘署長もこの残酷な話をしぼり
出した自分の過失に気がついたのか、しきりにギゴチない|空《から》|咳《せき》をし
ている。小夜子は大きな眼をみはって、珠世の手を握りしめた。珠世はそれを握りかえし
てやりながら、
「そういうわけで、モーターボートへ乗りうつってからあとのことは、わたしはなにも知
らないのです。佐智さんにどこへつれていかれたのか、なにをされたのか……」
珠世はそこでちょっと息をのんだが、すぐ勇をふるって、
「わたしには全然記憶がありません。そしてさっき眼がさめてみたら、わたしは自分のベ
ッドに寝ていました。しかも、そのことについて、どうやら猿蔵が知っているらしく思わ
れるのです。そういうわけですから、猿蔵の話をいちばん聞きたく思っているのは、皆様
がたよりもかくいうわたしなのです。わたしは聞きたいのです。知りたいのです。佐智さ
んが、わたしにどんなことをしたかを……」