「なるほど」
橘署長はぼんやりと、わらの寝床を見つめながら、
「すると、ここにだれかがかくれていたということは、もうまちがいのない事実というこ
とになるのかな。まさかこれ、見せかけじゃ……」
「見せかけですって?」
刑事がびっくりしたように尋ねると、橘署長は突然、おこったような語気になってこん
なことをしゃべり出した。
「ねえ金田一さん、昨日ここでどんなことが起こったのか、ほんとうのことはまだちっと
も、われわれにはわかっちゃいないんですぜ。なるほど、われわれは珠世と猿蔵の口から
一応もっともらしい話はきいた。しかし、それが真実だとは、だれが保証するんです。珠
世の話だと、佐智が眠り薬をかがせて、彼女をここへつれこんだというが、ひょっとする
とその反対に、珠世こそ佐智を誘惑して、ここへつれこんだのかもしれんじゃありません
か。猿蔵は正体不明の人物から電話がかかって、ここへ来たということになっているが、
それだってうそで、あいつのほうがさきに来て、ここで待ち伏せしていたかもしれんじゃ
ないか。金田一さん、あんたも覚えていなさるだろうが、あいつは網をつくろう材料とし
て、古い琴の糸を持っているんですぜ」
西本刑事はあっけにとられたように署長の顔を見直して、
「署長さん、するとあなたのお考えでは、ここに残ってるいろんな|痕《こん》|跡《せ
き》は、みんな見せかけだ、とおっしゃるんですか。そして、佐智殺しは珠世と猿蔵が共
謀して……」
「いや、断言はせん。しかし、そういうふうに考えられないこともないということを言っ
ているんだ。それにあの靴跡だが、あれはどうもハッキリし過ぎている、まるで判でおし
たように。しかし……まあ、いい、きみはきみの考えでもっと詳しく調べてみたまえ。金
田一さん、楠田君の仕事もソロソロおわっている時分だ。行ってみよう」
二人が二階へかえってみると、医者のすがたは見えなくて、刑事がひとり死体の番をし
ていた。
「川田君、楠田さんは?」
「はあ、あちらの御婦人のほうへ、おいでになりましたが……」
「ああ、そう、で|検《けん》|屍《し》の結果は」
「はあ、それについては、いずれ解剖のうえ詳しい報告が出るそうですが、だいたいのこ
とを申し上げますと……」
と、川田刑事は手帳を見ながら、
「死後の経過時間は、だいたい十七時間から十八時間ということになっています。したが
って現在の時間から逆算すると犯行のあったのは、昨夜の八時から九時までのあいだとい
うことになります」
昨夜の八時から九時までのあいだと聞いて、橘署長と金田一耕助は、思わず顔を見合わ
せた。猿蔵の話によるとかれがここを出ていったのは、夕方の四時半から五時までのあい
だだったという。してみると、だれに殺されたにしろ、佐智はそれからなお、三時間ない
し四時間も、椅子にしばりつけられたまま生きていたということになるのか。
刑事は二人の顔を見くらべながら、
「そうです、そういうことになるのです。ところが不思議なのはそればかりではなく、死
体に巻きついている琴の糸ですがね。これは死後巻きつけられたもので、被害者が実際に
くびり殺されたのは、この琴糸ではなくもっと太いひものようなものであったろうと、楠
田さんはいってるんですが」
「な、な、なんだって!」
橘署長は文字どおりとびあがったが、そのときだった。まるでその声に反響するかのよ
うに、向こうの部屋からけたたましい女の金切り声がきこえてきた。
金田一耕助と橘署長は、ギョッとしたように顔見合わせる。小夜子であることはわかっ
ていたが、それがあまりにもいたいたしい、悲痛なひびきをおびていたからである。
「署長さん、行ってみましょう。あの声はただごとではない」
小夜子は三つばかり離れた部屋で、猿蔵と幸吉の介抱をうけていたが、金田一耕助と橘
署長は、一步その部屋へ踏みこんだ|刹《せつ》|那《な》、思わず、|呆《ぼう》|然《ぜ
ん》として立ちすくんでしまった。
左右から猿蔵と幸吉に抱きすくめられた小夜子の顔は、もはや常人のそれではなかった。
眼はつりあがり、|頬《ほお》の筋肉が信じられないほどの勢いで|痙《けい》|攣《れ
ん》している。そしてまたひどい力だ。あの強力の猿蔵でさえが、どうかすると、ふりと
ばされそうになるのである。
「猿蔵、しっかりおさえていてくれよ。もう一本打つからな。もう一本やれば大丈夫と思
うが……」
楠田氏が手早く何本目かの注射をうった。小夜子のくちびるからはふたたび、三度、腸
をえぐるような悲痛な叫びがもれたが、それでも薬がきいたのか、しだいに静かになって
いくと、やがて彼女は猿蔵の胸にもたれて、子どものように眠りこんでしまった。
「かわいそうに」
楠田氏が注射器をしまいながら、沈痛な声でつぶやいた。
「取りのぼせたんですよ。一時的な発作でおさまればよいが……」
橘署長がそれをききとがめて、
「先生、それじゃ、発狂のおそれがあるというんですか」
「なんともいえんな。ショックがあまり大き過ぎたから。……署長」
と、楠田氏はむずかしい顔をして、橘署長と金田一耕助を見くらべながら、
「このひとは妊娠しているんだよ。妊娠三か月」
人差指の血
佐智が殺された――
佐智が死体となって発見されたというニュースは、湖水の向こうから電流のように、犬
神家につたわって、わっとばかりにしびれるような恐慌状態をそこにえがきだしたのだ。
とりわけ、この報告によって、いちばん大きなショックをうけたのが、佐智の母梅子であ
ったということは、事新しく述べるまでもあるまい。
梅子は昨夜来の不安と心痛のために、持病のヒステリーが|昂《こう》じ気味だったと
ころへこの凶報がとどいたものだからとうとうそれが爆発したのだ。彼女は悲嘆と痛憤の
あまり、この凶報をもたらした吉井刑事に向かって、あられもないことを口走ったという
のだが、それは人の母として無理がないとしても、ここに聞き捨てにならないのは、佐智
の変死をきいた刹那、彼女はこんなことを叫んだというのである。
「畜生! 畜生! 松子のやつ! あいつが殺したのだ。あいつが佐智を殺したのだ。刑
事さん、あいつをつかまえてください。松子をつかまえて死刑にしてください。いいえ、
いいえ、ふつうの死刑じゃ物足りないわ。逆さづりにして八つ裂きにして、火あぶりにし
て、髪の毛を一本一本ひん抜いてやりたい」