と、そのときはじめて金田一耕助が口をひらいた。
「金沢からどの方面へ派遣されたか、それくらいのことはわかるでしょう」
「いや、それがだめなんです」
古館弁護士はくらい顔になって、
「なにしろ、終戦のときのあの混乱でしょう。書類などめちゃめちゃになって、どの部隊
がどの方面へ派遣されたか、全然、わからなくなっているんです。そこへもってきて、ほ
かの部隊のものはボツボツ復員者があって、未復員者の消息もだいたいわかりますが、静
馬君の部隊にかぎってひとりも復員者がないのです。だからひょっとすると輸送の途中一
発くらって、全員海底のもくずと消えたのじゃないかと思われます。なにしろ、当時の海
上輸送の状態ですからね」
金田一耕助はそれをきくと、なんともいえぬ|暗《あん》|澹《たん》たる感じにおそ
われた。ああ、もしそれが事実とすれば、静馬という青年は、なんという|凶《わる》い
星のもとに生まれてきたのであろうか。その出生において自分の存在と権利を主張するこ
とができなかったかれは、その最後においても、どこでいつ死んだかということを、明ら
かにすることができないのだ。|闇《やみ》から生まれて闇に消えていく。――静馬の生
涯こそは、文字どおりうたかたの夢ではないか。金田一耕助はそぞろ|惻《そく》|隠《い
ん》の情にうたれずにはいられなかった。
「なお今後とも調査はつづけていきますが、菊乃という婦人のほうはともかくとして、静
馬君のほうは絶望ではないかと思いますよ。そんなことのないように祈りますけれどね」
古館弁護士はそういってカバンのなかへ書類をしまった。
シーンと水をうったような静けさが、部屋のなかにみなぎりあふれる。だれひとり口を
きくものはない。なにを考えているのか、皆自分の眼のまえを、あてもなく凝視しつづけ
る。
その沈黙をやぶったのは橘署長であった。署長はギゴチなく、のどにからまる|痰《た
ん》をきると、
「さて」
と、犬神家の一族のほうへ向きなおると、
「だいたい、いまのお話で、斧、琴、菊とこんどの殺人事件の関係もわかりましたから、
それでは昨夜の事件にもどることにしましょう。皆さんもすでにお聞きおよびのことと思
いますが、佐智君は豊畑村の空き家のなかで絞め殺されていたのですが、その時刻はだい
たい、昨夜の八時から九時までのあいだということになっています。それではなはだぶし
つけですが……」
と、一同の顔を見わたしながら、
「その時刻における皆さんの行動をお話しねがいたいのですが、……松子奥さま、あなた
からどうぞ!」
松子夫人はいやな顔をして、ジロリと署長の顔を見たが、やがて、佐清のほうをふりか
えると、落ち着きはらった声で、
「佐清、昨夜、お師匠さんのおかえりなすったのは、何時ごろでしたろうね。十時過ぎだ
ったわね」
佐清が無言のままうなずいた。松子夫人は署長のほうへ向きなおると、
「お聞きのとおりでございます。昨夜は|宵《よい》から宮川香琴先生がお見えになって、
御夕食もいっしょにいただき、そのあと、十時ごろまでずうっとお琴のおけいこをしてい
ただいていました。そのことはお琴の音で、このひとたちも知っているはずです」
と、竹子や梅子のほうへあごをしゃくった。
「お食事は何時ごろ?」
「七時ごろでした。そのあとしばらくお休みして、それからお琴を持ち出したのです。こ
のことはお師匠さんにおききくだすってもわかります」
「そのあいだ一度も座をお立ちにならないで……」
松子夫人はくちびるにホロ苦い微笑をうかべると、
「それは長時間のことですから、二度や三度、御不浄やなんかに……そうそう、一度琴の
糸をとりに、母屋のほうへまいりました。ご存じかどうか存じませんが、私はいまこのひ
とたちが|逗留《とうりゅう》しているので、この離れへひっこんでいるのですが、ふだ
んは|母《おも》|屋《や》に住んでいるものですから。……でも、それとても、五分か
十分のことでしたろうよ」
「琴の糸……?」
署長はちょっと眉をひそめたが、すぐ思いなおしたように、
「それで佐清さんは?」
「このひとも私たちのそばにいて、琴をきいておりました。お茶をいれてくれたりなんか
して、……このひととても二、三度座をたったようですが、豊畑村へ出むくなどとてもと
ても……」
松子夫人はまたホロ苦い微笑をうかべて、
「このことは香琴さんにおききくだされば、よくわかると存じます。あのひと、眼が不自
由ですけれど、全然見えぬというわけではなく、それにとても勘のいいかたですから」
これで松子夫人と佐清の?リバ?は完全になりたった。いかに松子夫人がしんねり強い
女とはいえ、宮川香琴にきけばすぐわかることを、うそをならべるはずはあるまい。
そこで橘署長が竹子のほうへ向きなおろうとすると、突然、横から梅子が口をはさんだ。
「いいえ、竹子姉さんやお兄さんのことなら、私ども夫婦が保証しますわ。宵から佐智が
見えないので、私ども心配して、お姉さんの部屋へ相談にいったのです。お姉さんやお兄
さん、それに小夜子さんも心配して、私たちといっしょになって、あちこち、料理屋だの
キャバレーだのへ電話で問い合わせてくだすったのです。あの子はちかごろ、多少やけ気
味になっていて、ときおりそんなところで遊んでくるものですから……」
梅子は憎々しげに珠世をにらみながら、
「ええ、そう、八時ごろから十一時ごろまで、そうして騒いでいたのです。このことは女
中たちにきいてくだすってもわかりますわ。それに署長さん、佐智を殺したのは、佐武さ
んを殺したやつと同じ人間にきまってますわ。姉さんや兄さんが現在わが子の佐武さんを
殺すはずがないじゃありませんか」
梅子の声はしだいにヒステリックに|甲《かん》|走《ばし》ってきたが、やがてわっ
と泣き出した。
最後に珠世と猿蔵だったが、署長がそのほうへ|鉾《ほこ》|先《さき》をむけると、
猿蔵がおこったように歯をむきだしてこんなことをいった。
「お嬢さんはさっきもいったとおり、眠り薬をかがされてなにも知らずに寝ていなすった
のだ。おら、まだどんなならずものが、いたずらをしに来ねえものでもねえと思っただか
ら宵からずっと次の間で、寝ずの番をしていたんで」