「いや、ありがとう。ああ、吉井さん、ボタンに付いている汚点について報告にきてくだ
すったのですね。どうでした結果は?」
「はあ、たしかに人間の血だそうです。血液型はO型」
「ああ、そう、ありがとうございました」
金田一耕助はそこではじめて藤崎鑑識課員のほうへ向きなおると、
「藤崎さん、さあ、どうぞ。いよいよあなたの番ですよ。結果は……」
さっきからむずむずしていた藤崎鑑識課員は、興奮のためにわななく指で、折りカバン
のなかから一本の巻き物と二枚の紙を取りだすと、
「署長さん、どうも変なんです。犬神佐清氏の手型を以前にも一度とったことはあなたも
ご存じですね。それがこれです。ここに十一月十六日と書いてあります。この手型は古館
さんからお預かりしている、この巻き物とピッタリ一致するんです。ところが今日あの死
体からとったこれ、……この手型は全然、あのふたつとちがっているんです」
風が葦の穂づらをわたるように、突然、ザワザワとしたざわめきが、一同のあいだから
わきおこった。署長は椅子からとびあがり、古館弁護士はいきをのんで大きく眼を見はっ
た。
「そんな馬鹿な! そんな馬鹿な! それじゃ昨夜殺されたのは、佐清君じゃなかったと
いうのかい。……」
「そうです。この手型から判断すると。……」
「だって、だって、このあいだ手型をとったときには……」
そのとき静かにことばをはさんだのは金田一耕助だった。
「署長さん、あのときはたしかに本物の佐清だったんですよ。このことがぼくにとって大
きな盲点となったのです。指紋の一致、これほどたしかな身分証明書がありましょうか。
まさかぼくはあの仮面をたくみに利用して、本物とにせものがすりかわっていようなどと
は、夢にも考えなかったものですから」
それから金田一耕助は珠世のほうへあゆみよって、
「珠世さん、しかし、あなたはそのことをご存じだったのですね」
珠世はだまって金田一耕助の眼を見返していたが、やがてうすく頬をそめると、立ち上
がって、一同にかるい黙礼をしたのちに静かに部屋から出ていった。
雪の雪ケ峰
十二月十四日。
この日こそはさしも紛糾をきわめた犬神家殺人事件解決の、最初の、|曙《しょ》|光
《こう》がきざしはじめた日だったが、この記念すべき日の、金田一耕助の朝の寝覚めは
上乗だった。
いままでかれの脳裏をおおうていた盲点の暗雲がカラリと晴れると、あとは|一《い
っ》|瀉《しゃ》千里だった。昨日いちにちかかって、かれはあたまのなかで推理の積み
木を組み立て積み上げ、なぞを形成する複雑な骨格は、もうすっかりできあがっていた。
あとはもう本物の佐清をさがしだすばかりである。そして、こんどこそは警察も成功する
だろう。なにしろさがす相手が佐清だということがわかっているのだし、しかも佐清の写
真もあるのだから。
金田一耕助は久しぶりに熟睡した。そして八時ごろに眼をさまし、ゆっくり温泉につか
ったのち、朝飯をくって一服しているところへ電話がかかってきた。
電話のぬしは橘署長だった。
「金田一さん、金田一さんですね」
署長の声はいくらか興奮にうわずっている。金田一耕助はふいと眉をひそめた。なにが
起こったのだろう。もうなにも起こるはずはないのだが。
「ええ、そう、金田一です。署長さん、な、なにかあったんですか」
「金田一さん、佐清のやつがあらわれたんですよ。昨夜、犬神家へ」
「な、な、なんですって! 佐清が犬神家へ……? そ、そしてなにかやらかしたんです
か」
「ええ、そう、しかし、さいわい未遂に終わりましたがね。金田一さん、すぐ署のほうへ
やってきませんか。これから佐清のあとを追おうというんです」
「承知しました」
金田一耕助は輪タクを呼んでもらうと、羽織の上から二重回しをひっかけて、大急ぎで
宿からとび出した。
雪はもう夜のうちにやんで、今日はまぶしいような上天気である。湖水の氷も湖畔の町
も、さらに背後にある山々峰々も、真っ白な毛布にふんわりとおおわれているが、|牡
《ぼ》|丹《たん》雪だから解けるにはやく、道の両側は軒をつたう雪解けの音がしきり
である。
警察のまえで輪タクをおりると、スキー道具を後部につけた自動車が三台とまっていて、
ものものしい格好をしたお巡りさんが数名、右往左往している。
金田一耕助が署長室へとびこむと、署長と古館弁護士がスキー服にスキー帽といういで
たちで立ち話をしていた。
署長は金田一耕助の姿をみると、眉をひそめて、
「金田一さん、その姿じゃ……あんた洋服を持っとらんのですか」
「署長さん、いったいなにがおっぱじまろうというんです。まさか事件をおっぽり出して、
雪にうかれ出そうというんじゃありますまいね」
「馬鹿なことをいっちゃいけない。佐清が雪ケ峰へ逃げたらしいという報告があったんで
すよ。だからこれから追いこんでいこうという寸法です」
「佐清が雪ケ峰へ……」
金田一耕助はドキリと|瞳《ひとみ》をすえて、
「署長さん、佐清のやつ、まさか自殺するんじゃ……」
「そのおそれは十分あります。だから一刻も早く取りおさえねばならんのだが、あんた、
その姿じゃ無理だな」
金田一耕助はニヤリと笑った。
「署長さん、見そこなっちゃいけませんぜ。ぼくはこれでも東北生まれです。スキーは|
下《げ》|駄《た》よりなれてまさあ。|尻《しり》はしょりでもスキーはできます。し
かし道具がなきゃあ……」
「道具は用意させてあります。それじゃいっしょに出かけますか」
そこへお巡りさんがひとり、あわただしく入ってきて、なにやら署長に耳うちした。署
長は強くうなずくと、
「よし、それじゃ出発だ」
まえの二台の自動車には、お巡りさんや私服が|鈴《すず》|生《な》りになってぶら
下がっている。最後の一台には橘署長に金田一耕助、古館弁護士。それに警部がひとり運
転台にのっていた。自動車はすぐ雪解けの道のぬかるみをけって走り出した。