一行が足を早めて登っていくとき、突然、上のほうからパンパンとピストルを撃ちあう
音がきこえてきた。
「あっ、はじめやあがった」
金田一耕助は兎のようにピョンピョンと、急な坂を登っていったが、やがて沼の平のス
ロープの頂上までたどりついたとき、そんな場合にもかかわらず、かれは思わず、
「ああ、きれいだ」
と、叫んで立ちどまらずにはいられなかったのである。
|豁《かつ》|然《ぜん》としてうちひろがった、雪一色のゆるやかな起伏、その向こ
うに、|峨《が》|々《が》たる八ケ岳の連峰が、これまた雪におおわれて、眉にせまら
んばかり間近に見える。|紺青《こんじょう》の空、薄紫色ににおうばかりの雪の|襞《ひ
だ》。……
だが、金田一耕助の|恍《こう》|惚《こつ》は、それほど長くはつづかなかった。ス
ロープの下のほうから、またしてもきこえてきたのは、パンパンとピストルを撃ちあう音。
と、見れば、はるか下のほうで、復員風の男を遠巻きにして、三人の私服がじりじりと
迫っていく。耕助といっしょに登ってきた連中は、それを見ると、いっせいに|燕《つば
め》のように滑降していく。金田一耕助もそのあとから、尻はしょりで滑っていった。
復員風の男は八方から、私服のお巡りさんにとりかこまれて、もう袋のなかの鼠も同然
だった。かれはステッキをすて、スキーをはいたまま|仁《に》|王《おう》立ちになっ
ていた。眼が血走り、くちびるのはしから血をたらしている形相がものすごい。
復員風の男はまた一発、二発撃った。それに応じてお巡りさんたちのピストルが火をふ
いた。金田一耕助はそのほうへ滑っていきながら、
「そいつを殺しちゃいけない。そいつは犯人じゃないのだから」
その声が耳に入ったのか、復員風の男はギョッとしたように金田一耕助のほうをふり仰
いだ。一瞬、手負い|猪《じし》のような凶暴な光が、その男の眼のなかにもえあがった。
男はピストルを持った手をひらりとひるがえすと、自分のこめかみに銃口をあてがった。
「あっ、そいつを殺すな」
金田一耕助が絶叫した刹那、だれのはなった一発か、男の|拳《こぶし》をつらぬいた
と見えて、相手はピストルを取りおとしたかと思うと、雪の上に|膝《ひざ》をついてい
た。そして、そのつぎの瞬間には、おどりかかった数名の私服によって、男の両手には手
錠がはめられていたのである。
橘署長と古館弁護士が、男のそばへちかづいていった。
「古館さん、いかがですか。この人物に見覚えがありますか」
古館弁護士は息をのみ、相手の顔を見守っていたが、すぐ暗い眼をして顔をそむけた。
「そうです。このひとこそ犬神佐清君にちがいありません」
橘署長はうれしそうに両手をこすりあわせたが、やがて、金田一耕助のほうをふりかえ
ると、眉をひそめて、
「金田一さん、あんたはさっき妙なことをいいましたね。その男は犯人じゃないと、あれ
はどういう意味ですか」
金田一耕助は、突然、バリバリジャリジャリともじゃもじゃ頭をかきまわしはじめた。
そして、いかにもうれしそうに、
「ショ、ショ、署長さん、ド、ド、どういう意味も、コ、コ、こういう意味もありません
よ。コ、コ、このひとは犯人じゃないのですね。タ、タ、たぶんこのひとは、あくまで自
分が犯人だといいはるでしょうけれどね」
さっきから凶暴な眼で耕助をにらんでいた佐清は、そのとき、手錠をはめられた両手を、
絶望したように打ちふると、ドサリと雪の上に横倒しになったのである。
わが告白
十二月十五日。
昨日からうちつづく好天気に、那須湖畔をうずめつくした雪も、だいぶ根がゆるんでき
たけれど、それにもかかわらず、那須市とその周辺に住むひとびとのあいだには、いま、
つめたい|戦《せん》|慄《りつ》と緊張とが、空気中に浮遊するバクテリヤのように|
瀰《び》|漫《まん》している。
かれらはみんな知っているのだ。那須湖畔いったいを|震《しん》|撼《かん》させた、
あの犬神家における連続殺人事件の、もっとも有力な容疑者が、昨日、雪の雪ケ峰でとら
えられたということを。そして、その容疑者こそはほかならぬ、犬神佐清そのひとであっ
たことを。さらにまた、その佐清とこの事件の関係者一同との対決が、今日これから、犬
神家の奥座敷でおこなわれようとしていることを。
さらにかれらは知っているのだ。去る十月十八日、若林豊一郎殺しにはじまった、この
一連の殺人事件も、いよいよ大詰めにちかづいているということを。ただ、だれにもわか
らないのは、犬神佐清がはたして真犯人であるかどうかということである。しかし、それ
も今日の対決によって、ハッキリわかるのではあるまいか。
だから、那須湖畔に住むひとびとは、|固《かた》|唾《ず》をのむ思いで、犬神家の
かたを凝視しつづけているのである。
その犬神家の奥座敷では例の十二畳二間をぶちぬいて、いま、異様に緊張した顔、顔、
顔がならんでいる。
松子夫人はあいかわらず、しんねり強い顔色で、たばこ盆をひきよせて、|悠《ゆう》|
然《ぜん》として、長ぎせるで刻みたばこをすっている。細いながらも、バネのように|
強靭《きょうじん》な体質をもったこの女は、いったい、いまなにを考えているのであろ
うか。
彼女も昨日雪ケ峰で、本物の佐清がつかまったということを、聞いていないはずはない
のである。してみれば……いや、いや、本物の佐清がつかまる以前に、あの手型から、湖
水に逆立ちしていた人物が、佐清でなかったことを知っているはずなのだ。
それにもかかわらず、彼女の態度にも表情にも、なんの動揺もあらわれていない。妹た
ちの|猜《さい》|疑《ぎ》と憎しみにみちた視線を、どこ吹く風とうけながしながら、
小憎らしいまでに落ち着きはらって、|朱《しゅ》|羅《ら》|宇《お》のきせるでたば
こをすっている。刻みたばこをもむ指先にも、|微《み》|塵《じん》のふるえも見られ
なかった。
松子からすこし離れたところに、竹子と夫の寅之助、梅子と夫の幸吉が、ひとかたまり
になって座っている。松子の落ち着きはらっているのに反してかれらは皆一様に、猜疑と
恐怖と不安におののいている。竹子のゆたかな二重あごは、極度の緊張のためか、ひっき
りなしにふるえている。