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犬神家族-大団円
日期:2022-05-31 23:59  点击:214
大団円
松子夫人の話は終わった。そして、この事件に関するかぎり、すべてのなぞは語りつく
されたわけである。
それにもかかわらず一同は、少しも胸のかるくなるのをおぼえなかった。いやいや、そ
の反対に、あまりにもドスぐろいし、あまりにも陰惨な真相に、腹の底が鉛のように重く
なるのを感じるのである。
シーンとしずまりかえった座敷のなかに、たそがれの底冷えがいよいよきびしくなりま
さる。空はまた曇りはじめたらしい。
「佐清や」
突然、松子夫人が声をかけた。それはまるで深山に叫ぶ怪鳥のような鋭い声だった。佐
清がギクッとしたように顔をあげる。
「あなたはなぜ匿名などしてかえってきたのです。あなたはなにか、うしろ暗いことでも
していたんですか」
「お母さん!」
佐清は熱い声でいって、それからひとびとの顔を見回した。その顔にはなにかしら、一
種異様な憤りのかげがあった。
「お母さん、あなたのおっしゃるような意味でなら、私にはなんのうしろ暗いところもあ
りません。内地の人情がこんなに大きく変わっていると知ったら、私はなにも匿名などす
るんじゃなかったんです。私はしかしそうは思わなかった。いまもなお、勝ってくるぞと
勇ましくと、日の丸の旗をふって送られた、あの当時の日本人だとばかり信じていたんで
す。私は前線で大きなあやまちをおかしました。自分の指揮のあやまりから、部隊を全滅
させてしまったんです。私は部下とただふたりで、ビルマの奥地を放浪しました。そのと
き、私は何度切腹して責任をとろうと思ったかしれないくらいです。なんの面目あってふ
たたび故国にまみえんや、……そんな気持ちだったんです。そのうちにたったひとりの部
下も死んでしまい、私ひとり捕虜になったんですが、そのときとっさに匿名をつかってし
まったんです。犬神家の家名に対しても、私は捕虜になることを恥じたのです。それだの
に……それだのに……内地へかえってみると……」
佐清は声をふるわせ、熱い息をのみくだした。
ああ、佐清が匿名で身分をいつわり、故国へかえってきたのには、そういう動機があっ
たのか。なるほどそれは、いささか常軌を逸した突飛な行動だったかもしれぬ。しかし、
戦争前の日本人は、だれでもそれくらいの誇りと責任感は持っていたはずなのだ。そして、
その誇りと責任感を、敗戦後まで持ちつづけていたところに佐清の純情がうかがえるので
はあるまいか。ただ、その純情のために、こんどのこの酸鼻を極めた事件を、未然に防ぐ
ことができなかったのは、千載の恨事ではあったけれど。……
「佐清や、それほんとうでしょうね。あなたが匿名を用いていたのは、ただ、それだけの
理由なのですね」
「お母さん、ほんとうです。それ以外、私には、なんのうしろ暗いところもありません」
佐清が熱い声でいった。松子夫人はにっこり笑って、
「安心しました。署長さま」
「はあ」
「佐清は刑に問われるでしょうね」
「それは……やむをえんでしょうな」
署長はギゴチない声で、
「いかなる理由があるにせよ、共犯……事後共犯の罪がありますからね。それにピストル
の不法所持……」
「それはひどく重いのですか」
「さあ……」
「まさか、死刑になるようなことはありますまいね」
「それは、もちろん……それにまあ、情状酌量が相当あると思いますが……」
「珠世さん」
「はあ」
ふいに松子夫人から呼びかけられて、珠世はギクッと肩をふるわせた。
「あなたは佐清が|牢《ろう》から出てくるまで待ってくれるわね」
珠世はさっと|蝋《ろう》のように青ざめたが、やがてその顔に、ぽっと血の気がのぼ
ってくると、|瞳《ひとみ》がうるんでキラキラ輝いた。彼女は決意にみちた声で、なん
のためらいもなく、キッパリといいきった。
「お待ちしますわ。十年でも、二十年でも……佐清さんさえお望みなら……」
「珠世ちゃん、すまない」
ガチャンと手錠を鳴らして、佐清が両手を膝について、首をたれた。
そのときである。金田一耕助が古館弁護士になにか耳打ちをしたのは。
古館弁護士はそれをきくと、強くうなずいて、うしろにおいてあった大きなふろしき包
みをひきよせた。一同の眼は不思議そうに、ふろしき包みに吸いよせられる。
古館弁護士がふろしき包みをとくと、なかから現われたのは、長さ一尺ばかりの長方形
の桐の箱だった。桐の箱は三つあった。
古館弁護士はその箱をささげて、すり足で珠世のまえに步みよると、それをうやうやし
く彼女のまえにおいた。
珠世は不思議そうに眼を見はっている。何かいおうとして、くちびるがわなわなふるえ
た。
古館弁護士はひとつひとつ、ふたをとって中身をとり出すと、それを箱の上においた。
と、同時に一同のくちびるから感動の声がもれ、風にそよぐ|葦《あし》|原《はら》の
ようなざわめきが、一瞬座敷のなかにたてこめた。
おお、それこそはまごうかたなき、犬神家の三種の家宝、金色|燦《さん》|然《ぜん》
たる、|斧《よき》、琴、菊ではないか。
「珠世さん」
古館弁護士は感動にふるえる声で、
「佐兵衛翁の遺言によって、これはあなたに贈られます。あなたはこれを、御自分の選ん
だひとに贈ってください」
珠世の頬にはさっと|羞《はじ》らいの色が散った。彼女はたゆとうような眼で、一座
の顔を見回していたが、その眼が金田一耕助の視線とぶつかると、ふっとそこで|釘《く
ぎ》づけになった。耕助はにこにこしながらかるくうなずく。珠世は笛のような音をたて
て、大きく息をうちへ吸った。
それから消え入りそうな声で、
「佐清さま、これをお受け取りくださいまし。……ふつつかものでございますけれど……」
「珠世ちゃん、あ、ありがとう」
佐清は包帯の手で眼をこする。
こうしてあの巨大な犬神家の全事業ならびに全財産を、相続すべきひとは決定したので
ある。そのひとは今後幾年かを、暗い牢獄で|呻《しん》|吟《ぎん》しなければならぬ
運命にあるのだけれど。
松子夫人はこのありさまを、満足そうにながめていたが、またひとつまみの刻みたばこ
をとって長ぎせるに詰めた。もし、このとき金田一耕助が、もっとよく注意していたら、
いま松子夫人のつめたたばこが、いままで吸っていた箱のものではなくて、たばこ盆のひ
きだし、すなわち、さっき時計をとり出した、あのひきだしからつまみ出されたものであ
ることに、気がついていなければならなかったはずなのである。
「珠世さん」
松子夫人は静かにたばこを吸いながら声をかける。
「はあ」
「あなたに、もうひとつ、お願いがあるの」
「なんでございましょう」
松子夫人はまたひきだしから、たばこを取ってきせるに詰めた。
「ほかでもない、あの小夜子のことですがねえ」
「はあ」
小夜子ときいて、竹子と梅子がはっと松子の顔をみる。しかし、松子はあいかわらず、|
悠《ゆう》|然《ぜん》としてたばこを吸い、何度も刻みを詰めかえながら、
「小夜子は近く子を産みます。その子の父は佐智です。してみると、その子は竹子さんに
とっても梅子さんにとっても孫にあたるわけです。珠世さん、わたしのいうことがわかる
わね」
「はあ。わかります。それで……」
「それで、お願いというのはほかでもないの。その子が大きくなったら、犬神家の財産を、
半分わけてやっていただきたいの」
竹子と梅子はギョッとしたように顔見合わせる。珠世は即座にキッパリと、
「小母さま、いいえ、お母さま、よくわかりました。きっとあなたのお言葉どおりいたし
ます」
「そう、ありがとう。佐清や、あなたもそのことをよく覚えておいておくれ。古館さん、
あなたは証人ですよ。そしてね、その子がもし器量のある男の子なら、犬神家の事業にも
参画させてね。これがわたしの、竹子さんや梅子さんに対する、せめてもの罪――ほ――
ろ――ぼ――し……」
「あっ、いけない!」
金田一耕助が|袴《はかま》の|裾《すそ》をふみしだいて駆けよったとき、松子夫人
はポロリと長ぎせるを取りおとし、ガックリまえにのめっていた。
「しまった! しまった! しまった! この刻みたばこだ。若林君を殺した毒……気が
つかなかった。気がつかなかった。医者を……医者を……」
だが、その医者が駆けつけてきたときには、一世を|震《しん》|撼《かん》させたこ
の希代の女怪、希代の殺人鬼、犬神松子はすでに息をひきとっていたのである。くちびる
のはしにちょっぴり赤いものをにじませて。……
那須湖畔に雪も凍るような、寒い、底冷えのする|黄《たそ》|昏《がれ》のことであ
る。

 
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして不当.不適切と思われる語句や表現があり
ますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、
一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)

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