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医院坡上吊之家-第一部 第一編(3)
日期:2022-05-31 23:59  点击:219

母の千鶴は日に日に狎《な》れ狎れしくなっていく、求婚者とおのれの娘のようすに、

ふっと眉をひそめるようなことはあっても、いっぽうでは安《あん》堵《ど》の吐息

をもらさずにはいられなかったであろう。

千鶴は猛蔵との再婚を避けがたい運命として観念していたようだ。彼女が猛蔵にたいし

てどういう感情を抱《いだ》いていたか定かではない。しかし、猛蔵の異常ともいうべ

き愛情は粘っこいトリモチみたいに彼女を金《かな》縛《しば》りにし、彼女にぜっ

たいの影響力をもつ兄の鉄馬でさえ、そのトリモチのなかで雁《がん》字《じ》がら

めにされているらしいとあっては、観念せざるをえなかったであろう。

ただこのさい心にかかるのは弥生の思《おも》惑《わく》であった。弥生は敏感で

目から鼻へぬけるような少女であった。猛蔵が家へ出入りをはじめたとき、千鶴はなによ

りも娘の眼をおそれたが、その娘がおいおい猛蔵に懐柔《かいじゅう》されていくのを

みて、男の抜け目のなさに感服せずにはいられなかった。かくて明治三十二年の秋、千鶴

は弥生を連れ子として猛蔵との再婚に踏み切った。まえにもいったようにそのとき弥生は

十一歳だった。

五十嵐家に引きとられてからの弥生は、まるでひとが変わったようだと千鶴は眼をみは

った。元来この子はもの静かな、思いやりのふかい娘だと思っていたのに、茅《かや》

場《ば》町へひきとられてからの弥生はすっかりお転《てん》婆《ば》娘になってし

まった。それには弥生をとりまく環境にも責任があると、千鶴はひそかに溜め息をつかず

にはいられなかった。

小石川の裏通りの小ぢんまりとした家で、母ひとり娘ひとり、ひっそりと暮らしていた

時代とちがって、茅場町の家はうんと広く客も多かった。おもに取り引き上の客らしかっ

たが、用談がすむと芸者や芸人が招かれることも珍しくなかった。千鶴はそういう席へ出

ることを好まなかったが、弥生はかならずよび出された。そういうときの弥生は満艦飾

《まんかんしょく》に着飾っていた。

弥生は母譲りで、いや、母まさりの美貌で、東京中の美貌をもって鳴る芸者や雛《お

し》妓《やく》をあつめても、弥生の右に出るものはなかった。俗物の猛蔵にはこの美

しい継《まま》子《こ》から、父として慕われるのがこのうえもなく得意らしかった

という。

弥生は弥生でそういう席での自分の役廻りを心得ているとみえ、適当にこの義理の父に

あまえ、適当に拗《す》ねたりふくれたりしてみせた。彼女は高貴であると同時にコケ

テゖッシュでもあった。

いまや猛蔵にとって弥生は、眼のなかへ入れても痛くない存在であった。その翌年、す

なわち明治三十三年の冬ひとり息子の泰蔵がうまれているが、猛蔵にとってはわが血をわ

けた倅よりも、弥生のほうに眼がなかったらしく、弥生もこの義理の父を慕ってやまなか

ったという。

明治三十五年の春、弥生は伯父の法眼鉄馬の計らいで華族女学校へすすんだが、学校の

成績も抜群で、才色兼備の才《さい》媛《えん》としてもてはやされた。

法眼鉄馬が庶《しょ》子《し》の琢也を養子にという話がもちあがったとき、弥生

は華族女学校の二年生で十五歳であった。このとき猛蔵からはげしく抗議が出たことはま

えにもいったが、鉄馬の意志の固いことをしると、猛蔵のほうから妙な妥協案が出された。

すなわち琢也と弥生を夫婦にして、夫婦養子とするならばこの養子縁組を認めようという

のである。

これはまったく妙な妥協案であった。弥生がじつの娘ならばともかく、彼女はあくまで

も桜井健一の娘であり、学校でも桜井弥生と名乗っていた。しかも彼女は法眼鉄馬の姪

《めい》であり、宮坂琢也とは戸籍上はともあれ、血からいえば従《い》兄《と》

妹《こ》同士である。それでは法眼家の後継者を鉄馬の血族でかためてしまうも同様では

ないか。

姉の朝子などこの妥協案に難色を示すというより、呆《あき》れかえってものもいえ

ぬという態度だったという。猛蔵は弥生との親子の絆《きずな》というか、弥生の自分

にたいする愛情に、よっぽど強い自信をもっていたにちがいない。

もっともこの自信にはいくらか裏付けがあり、幼いころひとり娘として育った弥生は、

泰蔵のうまれたときの喜びようったらなかったという。弥生と泰蔵とは十一ちがいである。

おしゃまな彼女は乳《う》母《ば》や女中を押しのけて泰蔵の面倒をみた。嬉々とし

ておしめをかえたりした。泰蔵がむずかって泣いたりすると抱きあげて家中をあやして步

いたりした。

当然泰蔵はだれよりもこの異父姉になじんだ。物心ついてからなにか気にいらぬことが

あり、癇癪《かんしゃく》を起こしているときでも、この姉が顔を出し、おしゃまな調

子であやしたりたしなめたりすると、すぐご機嫌がなおってニコニコして甘ったれた。

それにしても、千鶴はこの子供にどういう愛情をもっていただろうか。彼女は乳母や女

中に……、というよりは弥生にまかせっきりで、弥生があまりじょうずに泰蔵を操縦する

のをみると、

「この娘《こ》ったら、まあ」

と、苦笑するばかりであった。もっとも彼女はあまり体が丈夫ではなかったらしいが、

ひょっとすると猛蔵の子をうんだことを、後悔しているのではないかとさえ思われたとい

う。

では、猛蔵がわが子をどういうふうにみていただろうか。ひどく冷淡だったとしか思え

ないと、当時をしっているひとびとは、口をそろえて証言しているそうである。

これを要するに猛蔵というひとは、そうとう極端なフェミニストだったのではないかと、

金田一耕助は註釈を加えている。

かれはものねだりする子供がやっと手に入れたおもちゃを、当座は熱愛するが、やがて

飽きがくるとポ゗と投げ出し顧《かえりみ》なくなるように、千鶴が泰蔵を産んだころ

から、さすが異常なかれの愛情もさめ、ちょくちょく浮気をはじめたらしい。

それにたいして、千鶴がいちども嫉妬めいたことばを吐いたことがないということはま

えにも述べたが、では弥生はどうであったろうか。敏感な少女が養父の浮気に気がつかぬ

はずはない。それにたいして弥生が抗議したという記録はどこにもないが、自分を熱愛す

るあまり、養父が異父弟に冷淡だといって、しばしば意見をくわえていたという。

だから法眼鉄馬が琢也を養子にといい出したとき、交換条件として弥生とめあわせるこ

とを切り出したのは、息子の将来をこの勝気で聡明な少女に、託したのだとみればみられ

ないことはない。

もっとも万事に抜け目のない猛蔵のことだから、この妥協案の成立するまえに、弥生の

籍を自分のほうにとってしまうことは忘れなかった。それにはさいわい桜井健一には弟が

あり、桜井家はその男が相続することにして、弥生は桜井弥生から五十嵐弥生となり、戸

籍上でも猛蔵の娘ということになった。


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