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医院坡上吊之家-第一部 第一編(4)
日期:2022-05-31 23:59  点击:219

もういちど重ねていうが、こうまでして弥生を法眼家へ入れようとしたのは、法眼家の

将来について発言権を保留しておこうという肚《はら》だろうが、それには弥生との親

子の絆《きずな》によっぽど強い自信があったと見なければなるまい。

この場合鉄馬はこの縁組をどう思っていただろうか。優生学上従兄妹同士の結婚は好ま

しくないということくらい、当時の進步的な医家としてしらぬはずはない。しかし、鉄馬

と弥生の母の千鶴とは腹ちがいの兄いもうとである。何分の一か他人の血がまじっている

ことになる。事実かれはそういってこの縁組に賛成したという。しかし、内情をしるもの

はその時分すでに剛蔵から猛蔵へと親子二代にわたって、五十嵐家の黒い魔手がのっぴき

ならぬまでに、鉄馬の身辺にからみついていたのではないかと憶測していたそうである。

しかし、そういう政略的な意味だけで鉄馬の決断を忖《そん》度《たく》するのは

酷だろう。鉄馬はこのうえもなく美しく、このうえもなく聡明なこの姪を、幼時から掌中

の珠《たま》とめでいつくしんだ。弥生は弥生でこの偉大なる伯父を全身全霊をもって

敬愛した。この伯父に接するときの弥生と、義父猛蔵にたいするときの弥生とでは、まる

で別人の観があったという。前者に接するときはあくまで高貴に、しとやかにふるまい、

後者にたいするときは蓮《はす》っ葉《ぱ》でお侠《きゃん》でときには娼婦的で

さえあったという。

ではその際、琢也はどういう態度を持していたであろうか。当時かれは東京帝国大学医

科大学の学生であった。と、いうことは医者のタマゴであったということである。かれと

ても従兄妹同士の結婚が優生学上好ましからぬことくらい知らぬはずはなかったであろう。

それにもかかわらずこの結婚を承諾したとすると、かれはこの偉大なる父の命令にたいし

て、唯《い》々《い》諾《だく》々《だく》だったのではなかろうか。あるいは

七つ年少だが将来はどのような美人になるだろうと取り沙汰されていた、弥生の美

《び》貌《ぼう》と才気に心惹《ひ》かれたのであろうか。それともどのような手段

でもよい、日蔭の身から陽の当たる場所へ出たかったのではないか。

いま私の机のうえには法眼琢也の写真がおいてある。昭和六年の撮影とあるから五十歳

のときの写真で、身分はもちろん法眼病院の院長である。

これでみると、額のひいでたところと明澄な眼《まな》差《ざ》しに叡知と教養の

ほどがしのばれるが、顎《あご》の細いのが気にかかる。鼻下の髭《ひげ》もいかに

も遠慮がちにみえ、ハンサムはハンサムだが父鉄馬に比較すると、スケールがひとまわり

もふたまわりも小さいようだ。父鉄馬のもっている傲《ごう》岸《がん》なゕクの強

さはそこになく、なんとなく気の弱さを思わせる。医家というよりはどこか芸術家をしの

ばせるような風貌である。

事実かれは学生時代から短歌をたしなみ、大正から昭和へかけて歌壇の一方の雄であっ

た。多くのすぐれた歌集や随筆集があるが、そのなかに「風鈴集」というのがある。

それでみると、かれは法眼鉄馬の庶子であることを少しも隠していない。池《いけ》

の端《はた》の妾宅《しょうたく》で三日に一度ほどのわりあいで通ってくる、父を

待つ少年の憧れと怖れ、それがしみじみとした、高い調べで歌いあげられている。あると

き父は南部の風鈴を買ってきて軒につるした。風に鳴る風鈴のささやかなひびき、そのさ

さやかな響《ひび》きによせて父を恋《こ》う、少年の純情をうたった歌も何首かあ

る。

それはともかくとして琢也と弥生を夫婦にするという猛蔵の提案は容《い》れられた。

しかし、そのとき琢也は二十二歳、弥生はまだ十五歳である。正式の結婚は弥生の学校卒

業を待つとして、とりあえず仮祝言の儀がとりおこなわれたのが明治三十六年の秋のこと。

かくて法眼家と五十嵐家は二重三重の縁にむすばれ、鉄馬はますます猛蔵の悪どい魔手

におちいっていったのだろうという。事実その時分猛蔵はほかにもいろいろ商売の手をひ

ろげていたが、陸軍出入りの御用商人というのが、いちばん大きな商売だったらしい。

それが明治四十年の鉄馬の失脚につながり、四十二年の法眼病院の設立へと発展してい

ったのである。出資者はもちろん猛蔵であった。

弥生が琢也と結婚して正式の妻となり、伯父の鉄馬を父とよぶようになったのは、鉄馬

が失脚した年の秋だった。その翌年彼女は母の千鶴をうしない、さらにその翌年の明治四

十二年、すなわち現在の場所に法眼病院が設立された年の春、ひとり娘の万《ま》里

《り》子《こ》をうんでいる。

万里子は両親ににぬ鬼っ子で、鰓《えら》の張った顎といい、女にしては大柄という

よりはいかつい体をしているところは、たぶん祖父の鉄馬の血を引いているのであろうと

いわれた。色の白いは七難かくすで、色白で醜婦というほどではなかったけれど美人とは

いいにくかった。法眼家のひとり娘としてわがままいっぱいに育ったので、その気性はは

げしいというよりはたけだけしく、鼻持ちならぬほど驕慢《きょうまん》のふうがあっ

たという。

昭和五年彼女は二十二歳で養子を迎えた。養子の三《さぶ》郎《ろう》は旧姓古

《ふる》沢《さわ》、法眼病院の内科に勤務する医者で琢也の愛《まな》弟《で》

子《し》であった。温厚な人柄は養子むきといわれ、家庭ではすっかり万里子の尻にしか

れていたという。

よく世間では養子三代というが法眼家がそれであった。三郎と万里子夫婦のあいだに

は由《ゆ》香《か》利《り》という娘がひとりしかうまれなかった。由香利は昭和

七年うまれだから、あのおぞましい事件が起こった昭和二十八年には、かぞえ年で二十二

歳であった。

さていっぽう、五十嵐家のほうはどうであったろうか。猛蔵が妻の千鶴をうしなったと

き、かれは四十一歳であったが、二度と娶《めと》ろうとはせず、とっかえひっかえ女

を外にかこっていたという。したがって家庭は荒廃し、空々漠々たるものであったろう。

猛蔵の一子泰蔵が母をうしなったとき、かれは八歳であったが、父からも母からも愛さ

れなかったこの少年は、ひたすら異父姉《あ ね》の弥生を慕ったが、その弥生はい

まやひとの妻であり、まもなく一子の母となった。当然泰蔵はいつも孤独であった。

大正五年泰蔵は十七歳で私立中学の四年であった。その年かれは田《た》辺《なべ》

光《みつ》枝《え》なるふたつ年上の女中と駆け落ちした。猛蔵は怒ってかれを廃嫡

《はいちゃく》しようとしたが、弥生があいだにはいってやっとそれを宥《なだ》めて

納めた。


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