それに反して花婿さんのほうはいくらか変わっていた。
花婿さんは花嫁さんのむかって左側に立っているのだが、年頃はよくわからない。身長
は五尺八寸くらいで、恐ろしく肉の厚いからだをしている。これまた貸し衣裳ではないか
と思われる黒紋付きの羽織袴《はおりはかま》で、右手に扇《せん》子《す》を持
っているが、肩幅が広く、しかも大きく盛りあがっているので、裄《ゆき》があわなか
ったらしく、太いたくましい両腕がヌーッと袖口からはみ出しているのはみっともない。
胴まわりも太く、したがって身《み》幅《はば》があわなかったらしく、胸もとがは
だけてビッシリ密生しているらしい胸毛が少しのぞいている。そういえば袖口からはみだ
した太い両腕も毛深そうである。
さて、問題はその男の顔なのである。この男元来は無邪気で、あどけない童顔の持ちぬ
しではないかと思われるのだが、それが異形《いぎょう》な悪党ヅラにみえるのは、い
くらか縮れた髪を長く伸ばして、神武天皇みたいにうしろにかきあげ、揉《も》みあげ
を長くしてそのさきは顎《あご》ヒゲとなり、だらりと垂れた口ヒゲのさきも顎ヒゲの
なかへ合流していて、顔中ヒゲだらけだからだろう。昭和五十年のこんにちではこんなヒ
ゲ男もめずらしくないが、二十八年当時にあってはたしかに類のない異形であり、ちょっ
とした人間ラオンか熊男にみえた。しかも、この男は無精でそうしているのではなく、
これがこの男のダンデゖーらしいのだが、それが黒紋付きの羽織袴とひどく不調和にみえ
た。このヒゲのためにひどく老《ふ》けてみえるのだが、実際には二十六、七というと
ころではないか。金田一耕助はもういちど花嫁のほうに眼を移した。かれにはこの花嫁の
茫《ぼう》漠《ばく》たる眼つきが気になるらしい。それともうひとつ気になるのは、
新郎新婦の中間にぶらさがっている奇妙な物体である。直径一尺もあろうかと思われる妙
な代《しろ》物《もの》だ。なんであろうかと首をひねったが、どうしてもその正体
を捕捉することが出来なかった。
「なんですか、ここにぶらさがっているものは……」
「風鈴ですよ。ほら夏場軒端にぶらさげておく南部風鈴……」
そういわれれば風鈴である。庵型《いおりがた》の鋳物のしたに松笠を横に切ったよ
うなものがぶらさがっている。ふつうならばこの松笠の舌のさきにもうひとつ短冊型のも
のがぶらさがっていて、それが風に吹かれて舞うたびに、風鈴がなる仕掛けになっている
のだが、その短冊は見当たらなかった。
「風鈴を結婚の記念写真にぶらさげておくんですか」
「そうだそうです。それが花婿さんのうちの家風だそうで」
「これ、おたくのスタジオで撮影されたものですか。それとも出張撮影……」
「それなんです、金田一先生、聞いていただきたいお話というのは……」
二
ちかごろはカメラ時代といわれるだけあって、猫も杓子《しゃくし》もカメラを持っ
ている。自分は持っていなくても、友人が持っているかなんかで、たいていの写真はゕマ
チュゕ技師の撮影でまにあう。だからお見合い写真で名をうっている某写真館とか、各百
貨店の写真部以外、東京でも町の写真館というものは、むかしからみるとよほど少なくな
っている。
芝高輪の泉岳寺のそばにある本條写真館などは、そのかず少ない写真館のひとつである。
いや、私がここでかず少ない写真館といったのは、東京都全体をつうじてという意味であ
って、高輪付近には泉岳寺をあてこんだせいか、ほかにもう二軒写真館がある。
しかし、なんといってもいちばんの老舗《し に せ》を誇るのがこの本條写真館で、
創業明治二十五年というのだから、古いことにかけては申し分がない。昭和二十八年当時
で六十余年の暖《の》簾《れん》を誇っており、当主徳《とく》兵《べ》衛《え》
ですでに三代目である。順調にいけば直吉は将来四代目を継ぐわけだ。
もちろんこのへんいったいも、昭和二十年三月九日の大空襲でいちめんの焼け野原と化
し、本條写真館も烏《う》有《ゆう》に帰した。しかし、徳兵衛の見通しがよかった
のか、重要機材、薬品類はいっさい疎《そ》開《かい》してあったのでわりに早く復
興した。
まだまだ付近には焼け跡のまま放置されているところもあるが、本條写真館のあるあた
りは、だいたい整備されていて、付近には雑然として店舗がならんでいる。写真館として
の将来もちかごろどうやら明るくなってきていた。
それにもかかわらず徳兵衛の苦労のタネは、ひとり息子の直吉の性根がもうひとつ据
《す》わらないことである。直吉は昭和二十四年の春、シベリヤから復員してきたのだが、
そのとき二十六歳だったから、ことしちょうど三十歳である。それにもかかわらずいまだ
に女房をもとうとせず、写真技師としてよい腕をもちながら、どうも家業に身が入らない。
怪しげな復員者仲間とつきあって、外でなにかやっているようだが、いまに間違いを起こ
さなければよいが。戦争中女房をうしなった徳兵衛は、独力でここまで建てなおしてきた
のだが、それだけに苦労もひとりで背《し》負《よ》って立たねばならない。
いや、かれにはひとり弟《で》子《し》がいることはいるのだけれど、まだ若過ぎ
て頼りにならぬ。弟子というのは兵《ひょう》頭《どう》房《ふさ》太《た》
郎《ろう》といって戦災孤児である。もとは芝浦の漁師の倅だったが、芝浦いったいが戦
災をうけたとき、両親をうしない戦災孤児になってしまった。
昭和二十一年の冬、徳兵衛がまだ防空壕《ごう》生活をしているころ、食をあさって
盗みにはいったところを、ひっとらえてそのままうちへおいた。はじめのうちは放浪癖が
ぬけず、よくうちを飛び出したものだが、半年ほどたつうちに落ち着いて徳兵衛の写真館
復興に力をかした。目から鼻へ抜けるような少年で、おいおい写真技術者としての仕事に
興味を持ちはじめると覚えもはやく、直吉の消息がわからないころは、ゆくゆく養子にと
さえ思ったほどである。当年とって二十三歳。
さて、それは昭和二十八年八月二十八日の夕方四時ごろのことである。「本條写真館」と
金文字で刷った曇りガラスのドゕを押して入ってきた若い女がある。
以前はこの店も間口六間、奥には豪勢なスタジオが用意してあったものだが、いまでは
間口も半分になり、スタジオなども小規模なものになってしまった。それでもなおかつ、
ゆくゆくはお見合い写真なら本條写真館でというふうになりたいし、結婚式場もつくりた
いと、店舗のまわりにそうとうの敷地も用意してあるのだが、それもこれも直吉の性根が
すわらないことにはと、それが徳兵衛の苦労のタネなのである。
徳兵衛がそういう野心をもつのもむりはない。本條写真館といえば東京でも有名な古
い暖《の》簾《れん》だし、その古きを誇るかずかずの、徳兵衛が自慢してやまぬ代
物が表のショウウンドウのなかにある。店舗の間口に比較して、そのショウウン
ドウはべらぼうに大きく、たっぷり二間はとってあるが、なるほど徳兵衛が自慢するだけ
あって、そのなかはちょっとした明治大正昭和三代にわたる風俗史料の展示会みたい
であった。