「冗談じゃない。この人がなんの必要があって、自分の祖父に毒を盛るというんです。それにこの人……寺田君はいままで一度だってあの老人に会ったことはないのですよ。殺人狂ででもないかぎり、そんな馬鹿なことができるもんですか」
諏訪弁護士はこういって私を弁護してくれたのだが、この弁護は弁護にして弁護になっていなかった。諏訪弁護士はけっしてそんなつもりでいったのではなかったろうけれど殺人狂ででもないかぎり、そんな馬鹿なことができるものかという言葉は、裏返してみれば、もし私が殺人狂であったとしたら、あんなことをしたかもしれないという意味になるのだ。しかも、その時分私自身まだ知らなかった自分の呪のろわしい出生を、警察では諏訪弁護士からきいていて、ちゃんと知っていたのである。
私は係官が妙に猜さい疑ぎにみちた眼で、ジロジロ私の顔色をうかがいながら、私の健康状態、わけても精神状態について、根掘り葉掘りたずねるのに、ほとんど耐えることができなかった。係官のくちぶりから察すると、ときどき耳鳴りがするとか、あやしい幻覚に悩まされるとか、はげしい憂ゆう鬱うつ症におちいるとかそういうふうに告白すれば満足するらしかったが、正直のところ、私はいままで一度もそのような不快な症状に悩まされたことはない。私はけっして人一倍快活なほうではないが、これは孤独な境涯から来ているところで、自分ではまず普通の人間だと思っている。
しかし、係官はなかなか私の言葉を信用しないらしく、二、三日、私は繰り返し繰り返し自分の精神状態について尋問をつづけられた。
ところがそうしているうちに、急に局面が変わってきたのだ。私はのちになってその原因を知ることができたのだが、だいたいそれは次のとおりであった。
祖父を殺した毒物というのは、非常にはげしく舌を刺すもので、尋常の手段ではとても服用させられないような種類のものであった。警察の嘱託医はかねてこの点に疑問をもっており、そこで入念に胃の内容物を分析してみたところ、ついに溶解したゼラチンを検出することができたのである。
そこでこういうことになる。祖父を殺した犯人はカプセルに入った毒物をあたえたのだが、そのカプセルが胃のなかで溶解するには、相当時間がかかるから、そうなると、祖父と会って十数分間にしかならぬ私は、当然、嫌けん疑ぎの外へおかれたわけだ。
ところがそうなると、改めて嫌疑の対象となるのは、諏訪弁護士であった。私はそのときはじめて知ったのだが、祖父は諏訪弁護士の宅に一晚泊まったのだそうである。そして、これもそのときはじめて知ったのだが、諏訪弁護士も八つ墓村の出身者であったそうな。八つ墓村には私の家の田治見家のほかに、もう一軒野村家という分限者があり、諏訪弁護士はこの野村家の縁者であった。そういうところから、こんどの調査も商売気をはなれて引き受けたものらしく、八つ墓村から関係者が神戸へ出てきたときは、いつも宿を提供していたというのである。
しかし、諏訪弁護士にしたところで、祖父に毒など盛ろういわれはなく、そうなると、いったいだれが毒をのませたか。こうして、捜査はまた暗礁あんしょうに乗りあげたかたちになったが、そこへ諏訪弁護士の電報によって、祖父のあと始末かたがた、改めて私を引きとるために、八つ墓村から出てきた人物が、やっと神戸についた。そして、そのひとの話によって、一挙にして疑問は氷解したのだ。
祖父にはかねてから喘ぜん息そくの発作があり、ことに興奮すると発作はいっそう激しかった。そこで医者にたのんで特別につくってもらった薬を、いつも用意していたが、こんどのように、はじめて孫に会う旅行では興奮のほども思いやられるから、その薬を用意していないはずはない。その薬がカプセルのなかに入っていることは、村じゅうだれ一人知らぬものはないくらいだから、ひょっとすると犯人は、それらのカプセルのなかに、毒物を封じた別のカプセルを混ぜておいたのではあるまいか。……
この新しい証言によって、すぐに祖父の荷物が調べられたが、すると果たして三個のカプセルの入ったボンボンの鑵かんが現われた。それらのカプセルの中身も厳重に分析されたがこれは紛れもなく喘息の薬で、別に異常はなかったという。
しかし、このことからして、祖父は喘息の薬とまちがえて、毒薬を飲んだのであろうということになり、そうなると、犯人は遠く八つ墓村にいるということになる。こうして事件は八つ墓村へ移されることになり、おかげで私も弁護士も、嫌疑の外へおかれることになったのであった。
「いや、美み也やさんのおかげで助かったよ。なに、ぼくなどたとい見当ちがいの嫌疑をこうむったところで、いずれなんとか切り抜けてみせる自信はあるが、たびたび呼び出されちゃやっかいだからね」
「ほほほほほ、さすがの諏訪さんもいくらかまいったらしいわね。でもあなたや私なんか海千山千だからいいけれど、こちらお気の毒でしたわね。あなた、ずいぶんびっくりなすったでしょう」
それはふたりの嫌疑が完全に晴れた晚のことであった。お祝いにいっぱいやろうという諏訪弁護士にまねかれて上筒井にある弁護士の自宅へおもむいた私は、そこで世にも意外なひとに紹介されたのである。
「こちら森美み也や子こさん、われわれにとっては救いの神ですよ。わざわざ八つ墓村から出てきて、丑松さん殺しの疑問を一挙にして解決してくれたのはこのひとなんです。美也さん、こちらが問題の寺田辰弥君……」
ああ、そのときの私の驚きをなんといって表現したらよいだろうか。八つ墓村といういやな名前や、さてはまた祖父丑松の鄙ひなびた風体などからして、私はいままでその村を野蛮な人外境じんがいきょうかなんぞのように考えていたのだ。ところがいま眼のまえにいるひとは、都会でだってそうざらには、お眼にかかれないような美しいひとだった。いやいや、美しいのみならず、都会的に洗練されつくした技巧が、ちょっとした身のとりなしや、口のききかたにもうかがえるのだ。