宮城圭助は、碌々商会の皆川常務が要談をすませて立去るのを、鄭重に送り出してから、半分ほどになった葉巻を、灰皿の中におしつぶし、パンパンと、ほこりを払うように両手を打ち合せた。それから、帽子掛けの鏡の前に立って、ちょっとネクタイを直し、鼠色の合外套に袖を通し、ソフトを両手で丁寧にかむってから、デスクに引返し、一番下のひきだしから、大きな革鞄をだいじそうに取出して、小脇にかかえた。
社長室のドアをひらいて出ると、社員達はまだ仕事をしていた。多くは机にかじりついていたが、今そとから帰って、鞄の中から書類を取出して、立ったまま調べている男もいた。煙草の煙を濛々と吹き出しながら、立話しをしているものもあった。実際社長は、そのあいだを、ニコニコしながら、出口の方へ歩いて行った。べつに社員達に云いのこすこともなかった。宮城貿易商社は、アメリカのスコット商会とうまくやっているので、社運は上昇線をたどっていた。
立話しをしていた社員の一人が、社長を追って近づいて来た。
「社長、今日はどちらへ? この間、愛子さんが恨んでいましたぜ。たまには…………」
「コラコラ、社長に向かって何を申すか、ひかえていろ」
二人とも低い声ではあったが、他聞を憚かるようでもなかった。社長が三ヶ所に妾宅を持っていることは、社内で知らぬものもなかった。社外にも響きわたっていた。宮城社長は、社員のお世辞を叱って見せたが、むろん怒っている顔ではない。商売上ではなかなかのやり手だが、女好きでお人よしの、社員にとっては、心のおけない好社長であった。
ビルの石段をおりると、運転手がリンカーンのドアをひらいて待っていた。
「河田町」
手近の別宅である。午後五時少しすぎ、車は河田町の四つ角でとまった。
「帰ってくれたまえ。いつもの通り、朝は迎えに来なくてもいい」
宮城社長は、わざと別宅の一丁も手前で、車をとめさせる習慣であった。彼は車が遠ざかるのを見定めてから、例の鞄をかかえて、別宅とは逆の方角へ歩き出した。町角を四つほどすぎて、大通りに出ると、通りかかった小型自動車を呼びとめて「市ヶ谷駅」と命じた。
市ヶ谷駅で降りた時には、いつの間にかソフトがハンチングに変っていた。そのまま駅の手洗所に入って、合外套をぬぐと、それを小さくたたんで、鞄の中へ入れた。折りたたんだソフトも、そこにはいっていた。それから、近くの駅までの切符を買い、電車には乗らないで、駅の別の出入口から町に出て、今度は中型のタクシーを拾った。
次に水道橋駅の手洗所から出て来たときには、ズボンが折目のとれた古い薄茶色のギャバジンに変り、靴もいやに派手な型のものに一変していた。
今度は車にのらないで、神田まで歩いて、映画館に入り、そこの手洗所で、上衣をとりかえた。ワイシャツも脱いで、太い茶色の横縞のあるジャケツを着た。それから、大型のコンパクトのようなものを取出して、ちょっとお化粧をした。
そして、映画館の別の出入口から町に出たときには、宮城貿易商社の社長は、よたもんの親方に一変していた。髪をわざとモジャモジャにし、ハンチングの冠り方一つにも、うまくその役柄を出していた。ちょっとしたつけひげ、目立たない目の隈、脣のどす黒い色、その顔からは宮城圭助を思い出させるものが、すっかり消えうせていた。
再び小型タクシーを拾って、神田駅へ。そこの一時預り所に鞄をあずけてから、近くの飲み屋横町へ急いだ。手のこんだ変装のために一時間以上を費したので、もうあたりは真暗になっていた。
飲み屋の軒を並べた横町の一軒、ブルウ・エンゼルに入ると、店にはまだ一人の客もなく、ガランとしていた。カウンターにいた男ボーイが、「いらっしゃい」と、あいさつした。宮城は、それにちょっとうなづいて見せて、奥の階段を二階へ上って行った。二階は主人の住いとして、客は上げないことになっていた。
二階は二間で、一方は六畳の畳敷き、一方は四畳半にベッドを置いて、合の仕切りに血のような色のカーテンが深く垂れていた。六畳の方には、腰かけるとビーンと音がして、ゼンマイの針金が尻にこたえる古ソファ、それに籐椅子が二脚と、汚れた丸テーブル、大きな桃色のシェードをかけた、薄暗い電気スタンド。
宮城が籐椅子にかけると、カーテンの向うで何かしていたマスターの孝ちゃんが、ジャンパー姿で顔を出した。
「きょうはお早いのね。お待ちかねでしょう」
「ウン、七時までに来るはずだったね。おれ、腹がへってるんだ。へんなものはいらない。いつものサンドイッチがいい。それとスコッチ。早くしてくれ」
マスターは「あいよ」と答えて、階段をギシギシいわせながら降りて行ったが、じきに銀メッキの盆の上にサンドイッチの皿と、ウイスキーの瓶とグラスを二つそろえて持って来た。
「さあ、いっぱい」
宮城はマスターについでやって、自分もグラスに半分ほど、グイとやってから、サンドイッチをつまんだ。脣をペチャペチャ云わせる下品なたべかただ。なかなか芸がこまかいのである。
「ねえ、園田の親分、またちょっと苦しいのですよ。ね、お願い」
「ふん、もうかい。ちかごろヒンパンだな」
「親分も、ここをヒンパンにお使いになるでしょう」
「うん、わかった。サア、きょうはこれだけ」
園田と呼ばれる宮城は、ズボンのポケットから、無造作に札束を一握り取出して、マスターの孝ちゃんに渡した。
「用事がすんだら、あれを出してくれ。例のおもちゃさ」
マスターは黙って寝室にはいり、押入れをあけて小型の自働拳銃を取り出して来た。
「きょうも使うんですか」
「ここで人殺しはしないだよ。ちょっと見せびらかすだけさ。たまはちゃんとはいっているがね」
二人でウイスキーの壜を半分にしたころ、下から合図があって、待っていた客がやって来た。オズオズと階段を上る音。やがて、顔を出したのは、三十才前後の、ちょっと愛くるしい洋装の女であった。
「さあ、どうぞ、こちらへ」
孝ちゃんが、表情を押し殺して、神妙らしく、その婦人を長椅子にかけさせた。園田は見向きもしないで、グラスをチビリチビリやっている。
「河合さんが、こちらへ来るようにおっしゃいましたので、園田さんというお方は…………」
「おれだよ」
園田が向き直って、女の顔をジロジロ見た。
「で、今度のことを見のがしてくれって、いうんだね」
「ええ、園田さんにお目にかかれば、許して下さると伺いましたので」女はせいいっぱいの勇気で物を云っている。何かよほど後暗い、ひけ目があるのだ。
「それで、見のがし代は?」
「わたくし、お金が自由になりませんので、やっとこれだけ」
園田はオズオズさし出す札束に目もくれなかった。
「金じゃあ駄目だよ」
「では、何をさしあげれば…………」
園田が目まぜをすると、マスターは立上って、部屋を出て行った。あとにピッタリドアがしまる。そして、階段のきしむ音。
園田はチラッ、チラッと女の顔を盗み見ながら、ピストルをおもちゃにしていた。カチッと弾巣をひらいて、実弾がはいっていることを見せびらかしたりした。
「お前さんに愛人ができていることを、ご亭主に知らせれば大変なことになる。愛人の方にも細君がある。だから、どうすることもできないんだ。そこがつけ目だよ。君はおれのいうことは、何でも聞かなきゃなるまい。証拠はすっかり揃っているんだ。私立探偵の河合は、おれの子分だからね。これをバラせば、お前さんは身の破滅だ。わかったね」
女は真青になって、ふるえていた。来なければよかったと後悔しても、もうおっつかないのだ。
「お前さん、ジーキルとハイドってのを知ってるかね。おれは、本当は心がけのいい人間だが、ハイドになると仕末におえねえ。人殺しなんか平気だぜ。ジーキル博士は薬を呑んだが、おれは薬なんか要らない。ちょっと手品を使えば、いつだってハイドになれる。血に餓えたハイドだ。慈悲もなさけもないハイドだ」
園田は歯ぐきをむき出しにして、ゲラゲラと笑った。自分が今、どんなに凶悪な面相をしているかと思うと、嬉しくてたまらなかった。
「因果なこったが、そうして、お前さんのような美しい女が、真青になってブルブルふるえ、おれを悪魔のように憎んでいるのを見ると、こたえられないんだ」
「じゃ、わたくし、どうすればいいんですの?」
キッと上げた目に涙がふくらんで、今にもこぼれそうだった。その目が憎悪に燃えていた。かよわい女の怒り、これが園田にとっては、この上もない愉しみであった。猫には抵抗する鼠ほどおいしいのである。
「ハイドはね、その人のいちばんいやがることをさせて、見物するのが好物なんだ」
園田は冗談のように、ピストルの筒口を女の胸に向けて、凶悪無残の相好を作りながら、低い力のこもった声を出した。
「服を脱ぐんだ。何も着ていないお前さんが見たいんだ」
礼儀というものにしばられたこの良家の妻が、どれほど困惑するか、どんなに恥しい、気まずい思いをして、一枚一枚彼女の服を脱ぐか、その、身も捻じれんばかりの醜態を、園田はピストルを構えながら、じっと待っていた。
薔薇夫人(2)
日期:2022-08-08 23:58 点击:254
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