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二百十日(1)
日期:2022-12-03 23:59  点击:315
 

二百十日

小川未明


空そら高たかく羽虫はむしを追おいかけていたやんまが、すういと降おりたとたんに、大おおきなくもの巣すにかかってしまいました。しまったといわぬばかりに、羽はねをばたばたして逃にげようとしたけれど、どうすることもできませんでした。
縁先えんさきで、新聞しんぶんを読よんでいたおじいさんは、ふと顔かおを上あげた拍子ひょうしに、これが目めに入はいってじっと眼鏡めがねの底そこから、とんぼの苦くるしがるのを見みたのであります。
かわいそうにと、おじいさんは、思おもいました。年としをとると、すべてのことに対たいして、憫あわれみ深ぶかくなるものです。そして、いまにもくもが出でてきて、目めの前まえで、とんぼの殺ころされるのを見みるにしのびませんでした。
「正二しょうじや。」と、おじいさんは、孫まごを呼よびました。自分じぶんにはどうにもならなかったからです。
あちらのへやで、明日あしたの宿題しゅくだいをしていた正二しょうじは、何事なにごとかと思おもって、すぐに祖父そふのところへやってきました。
「なんですか、おじいさん。」
「あれ見みな、いまやんまが飛とんできて、くもの巣すにかかったんだ。かわいそうだから助たすけてやんなさい。」
正二しょうじは、いつも、こんなようなことに出であったときは、人ひとにいわれなくとも、自分じぶんから進すすんで助たすけてやる性質せいしつでありました。
「くもは、どうしたのか、出でてきませんね。」と、正二しょうじは、不思議ふしぎそうに、見上みあげていました。
「いや、どこかに隠かくれていて、やんまの弱よわるのを待まっているのだ。なかなかずるいやつだからな。はやく助たすけてやんなさい。」
おじいさんは、まごまごしていると、やんまが、疲つかれて死しんでしまうと思おもったのでした。
正二しょうじは、勝手かってもとへいって、長ながい物干ものほしざおを取とって、裏うらの方ほうへまわりました。庭にわには日ひごろから、おじいさんの大事だいじにしている植木鉢うえきばちが、たなの上うえに並ならべてありました。彼かれは、それを落おとさないように、自分じぶんの力ちからにあまる長ながいさおを持もち上あげて、垣根かきねの際きわまでいきましたけれど、まだそのさおの長ながさでは、くもの巣すまでとどきませんでした。
「おじいさん、だめですよ。」
やんまは、まだ生いきていて、ときどき思おもい出だしたように、羽はばたきをしました。けれど、どうしたのか、くもはまだ姿すがたを見みせませんでした。
「さおが短みじかいか、よわったのう。」と、おじいさんは、眼鏡めがねの中なかから、小ちいさな光ひかる目めで、やんまを見みつめていられました。
「ああ、重おもい。」
正二しょうじ、さおをドシンと垣根かきねの上うえへ倒たおしました。そのくもの巣すは、高たかい木立こだちの枝えだから、隣家りんかの二階かいのひさしへかけているので、隣となりの屋根やねへ上あがるか、それとも隣となりの塀へいの上うえに登のぼらなければ、さおがとどかなかったのでした。
「かまわずにおきましょうか。」
しかし、おじいさんには、知しらぬ顔かおをしていることができませんでした。
「あちらの塀へいへ上あがれば、とどくだろう。」
「僕ぼく、やだなあ。」
「いい子こだから、助たすけておやり。なんでもおまえのほしいものを買かってやるから。」と、おじいさんは、いいました。
「ほんとう? おじいさん、僕ぼくにハーモニカ買かってくれる。」と、正二しょうじは、聞ききました。このあいだから、おじいさんに、ねだっている品しなです。
「買かってやるから、助たすけておやり。」と、おじいさんは、いいました。
これを聞きくと、正二しょうじは、一時じは、うれしそうな顔かおつきをしましたが、急きゅうになんと思おもったか、
「いいよ、おじいさん、僕ぼく買かってくれなくてもいいの。」といいながら、さおをかついで、隣となりの家いえの門もんを開あけて入はいっていきました。
ちょうどそのとき、そろそろと糸いとを伝つたって、大おおきな黒くろいくもが、やんまに迫せまっていました。

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