三
雪の上は一面に鈍い光を放って、空は次第に暗くなった。刻々に空は下へ下へと押え付けるような感じがした。
彼方にも、
此方にも雪を被った幽霊のような木立や、黒い悪魔のような森があった。私は、吉太に遇って、あの黒い鳥を見てから、暗い気持になった。
しかし、又何となく吉太が可哀そうな気持もした。
「あんな悪い児の鳥を貰っていいだろうか?」
と、いうような
感もした。また、あの黒い鳥は
常の鳥でない、あの鳥が来てから何か自分の家に不幸が起るようなことがあるまいかとも思った。
「そうだ、あの黒い鳥が来ると、家の者が病んで死ぬのでないか?」と、身が寒気を催した。
而してその黒い鳥は、今始めて見たのでない。何処かで一度見たことがあるような気持がした。怖しい処で見た、赤い色と灰色の混った処で見た……何処だろう? 考えると、私の目の前に、
河水に臨んだ赤い
煉瓦造の監獄の建物が浮んだ。河には雪や
霙の固りが水に漂って流れて来る……晩方の景色だ。
「あの黒い鳥を監獄の中で見たようだ。」……雪の上に立止った。自分は生れてから監獄の中へ入って見たことがあろうか……一度でも行って見たことがあったろうか。
「何か悪いことをしたことがあったろうか?」
「何か人の物を
盗すんだことがあったろうか?」
「全く覚えがない!」
けれどこの黒い鳥を見たことがあるようだ……それは幼ない時分であった。日蝕の日に斯様黒い鳥が沢山、空を廻っていたような気がする。何んでも黄色な暗くなった空に、驚いて怪しな声で、ぐるぐると輪を
画きながら啼いていた。大日輪がご病気になられたのだから見ると悪い――その意はこの日に何か人の命に
障る毒が降るともいうので――人の通りが全く
杜絶た。木も悲しめば、草も悲しむという。無心の鳥まで悲しむというので、戸口に立て空を見た時、雲は
悪熱で煮えるように薬色となっていた。よく熱病になった時土用の
丑の日に
採て
乾て置いたどくだみ草を煎ずるとこういうような色になる。
若しその水を飲んで命があるものならどんな重い熱病も
癒るが、死ぬものなら身体がやはりどくだみ草の色と
化って死んでしまうと聞いた――この時、黒い鳥が空を幾羽となく飛んでいた。その黒い鳥は余り大きくなかった。無論烏ではなかった。その啼声は物に驚いたような、目が見えなくなったような、巣の
有り
所を忘れたような、
呻吟ような、
悶えるような、切なそうな啼き声であった。私はこの黒い鳥の啼声を聞いたとき、もう二度と太陽は現われずに、こうなってこの世がいつまでも夜になってしまうのであるまいかと思った。若しそうなったら
何うなるだろう。人は外へ出て働くこともならず、木は、草は、あのように薄暗い、飴色の空の下に悲しそうに立っている。彼方の家もあのように黒く、この厭らしい黄色な空の下に動かずに浮き出ていて、すべてが黄色な空の下に
唖のように音なく黙っている……何時までも何時までも黙っている。ただ見るものは、飴色の空に折々悪夢のような形の定まらぬ雲が出たり、消えたり、
鈍く鈍く動いているばかり。而してこの黒い鳥が、やはり厭な斯様声で啼きつづけているだろう。けれどいつかこの黒い鳥も羽が疲れて
地面に落ちてしまい、厭な声も次第に疲れて
涸れてしまうだろう。そうすればこの世は全く声というものが絶えてしまう。犬も死んでしまえば、
鶏も死んでしまう。全く生物の声は絶えてしまう。……けれど最も最後まで啼いているものはこの黒い鳥であるというような気がした。その時、地球の上に風が吹くだろうか?……やはり吹くかも知れない。けれどそれは冷たい、氷のような風である。あの悲しい木や、草に当る時、
傷ましい音を立てるだろう。そうなったら雨が降るだろうか……雨というものは降らないかも知れない。
「この日蝕はいつまでつづくだろう……。」と私は気を揉み始めた。幾日もこの儘であったら、人は
燈火を
点しつづけて、いつか油も尽きてしまうだろうと思った。……このとき家の内では燈火を
点けた。空ではやはり黒い鳥が啼きつづけていた。
「あの、鳥は何という鳥でしょうね。」
と、隣でいっている声がした。
「燕でしょうか?」と、誰かいう。
「燕にしては、啼声が違うや。」と、これは子供の声である。
「不思議な鳥が出たものだな。」と、老人の声がする。
「大変に暗くなりましたね。」と、女の声だ。
「厭な啼き声だこと。」
「あの黒い鳥。」
「幾羽居るだろう……。」
などという声がした。
* * *
空は
漸々暗くなって来た。雪がまた
降て来そうになった。私は銃を
担いで家へ急いだ。
「あの黒い鳥を貰ってもいいだろうか。」……吉太が可哀そうだというような考えも起った。
その晩は何となく暗い思いがしたが、
明る朝になって絵具皿を探し始めた。