日语学习网
第2章 追悼 In Memoriam(3)_ハリー・ポッターと死の秘宝_ハリー・ポッター_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3341

アルバス・ダンブルドアを悼いたむ エルファイアス・ドージ

 

私がアルバス・ダンブルドアと出会ったのは、十一歳のとき、ホグワーツでの最初の日だった。互いにのけ者だと感じていたことが、二人を惹ひきつけたに違いない。私は登校直前に龍痘ドラゴン・ポックスに罹かかり、他人に感染かんせんする恐れはもうなかったものの痘痕あばたが残っていたし、顔色も緑色がかっていたため、積極的に近づこうとする者はほとんどいなかった。一方、アルバスは、芳かんばしくない評判ひょうばんを背負ってのホグワーツ入学だった。父親のパーシバルが三人のマグルの若者を襲おそった件で有罪になり、その残忍な事件がさんざん報道されてからまだ一年と経たっていなかったのだ。

アルバスは、父親その後アズカバンで亡くなったがそのような罪を犯したことを、否定しようとはしなかった。むしろ、私が思い切って聞いたときは、父親はたしかに有罪であると認めた。この悲しむべき出来事については、どれだけ多くの者が聞き出そうとしても、ダンブルドアはそれ以上話そうとはしなかった。実は、一部の者が彼の父親の行為こういを称賛しょうさんする傾向にあり、その者たちは、ダンブルドアもまたマグル嫌いなのだと思い込んでいた、見当違いも甚はなはだしい。アルバスを知る者なら誰もが、彼には反マグル的傾向の片鱗へんりんすらなかったと証言しょうげんするだろう。むしろ、その後の長い年月、断固だんことしてマグルの権利を支持してきたことで、アルバスは多くの敵を作った。

しかしながら、入学後数か月を経へずして、アルバス自身の評判ひょうばんは、父親の悪評あくひょうを凌しのぐほどになった。一学年の終わりには、マグル嫌いの父親の息子という見方はまったくなくなり、ホグワーツ校始まって以来の秀才ということだけで知られるようになった。光栄こうえいにもアルバスの友人であった我々は、彼を模範もはんとして見習うことができたし、アルバスが常に喜んで我々を助けたり、激励げきれいしてくれたりしたことで恩恵おんけいを受けたことは言うまでもない。後年こうねんアルバスが私に打ち明けてくれたことには、すでにそのころから、人を導みちびき教えることがアルバスの最大の喜びだったと言う。

学校の賞しょうという賞を総嘗そうなめにしたばかりでなく、アルバスはまもなく、その時代の有名な魔法使いたちと定期的に手紙のやり取りをするようになった。例を挙げれば、著名ちょめいな錬れん金きん術じゅつ師しのニコラス・フラメル、歴史家として知られるバチルダ・バグショット、魔ま法ほう理り論ろん家かのアドルバート・ワフリングなどだ。彼の論文のいくつかが、「変身へんしん現代げんだい」や「呪文じゅもんの挑戦ちょうせん」、「実じっ践せん魔ま法ほう薬やく」などの学術出版物に採り上げられるようになった。ダンブルドアには、華々はなばなしい将来しょうらいが約束されていると思われた。あとは、いつ魔法大臣になるかという時期の問題だけだった。後年こうねん、ダンブルドアがまもなくその地位に就つくと、幾いく度どとなく人の口に上ったが、彼が大臣職を望んだことは、実は一度もなかった。

我々がホグワーツに来て三年後に、弟のアバーフォースが入学してきた。兄弟とはいえ、二人は似ていなかった。アバーフォースは決して本の虫ではなかったし、揉もめ事ごとの解決にも、アルバスとは違って論ろん理り的てきな話し合いよりも決闘けっとうに訴うったえるほうを好んだ。とはいえ、兄きょう弟だい仲なかが悪かったという一部の見方は大きな間違いだ。あれだけ性格の違う兄弟にしては、うまくつき合っていた。アバーフォースのために釈明しゃくめいするが、アルバスの影のような存在であり続けるのは、必ずしも楽なことではなかったに違いない。アルバスの友人であることは、何をやっても彼にはかなわないという職しょく業ぎょう病びょうを抱えるようなもので、弟だからといって、他人の場合より楽だったはずはない。

アルバスとともにホグワーツを卒業したとき、私たちは、そのころの伝統でんとうであった卒業世界旅行に一緒いっしょに出かけるつもりだった。海外の魔法使いたちを訪たずねて見聞けんぶんを広め、それから各々の人生を歩み出そうと考えていた。ところが、悲劇ひげきが起こった。旅行の前夜、アルバスの母親、ケンドラが亡くなり、アルバスは家長かちょうであり家族唯一ゆいいつの稼かせぎ手となってしまった。私は出発を延のばしてケンドラの葬儀そうぎに出席し、礼を尽つくした後に、一人旅となってしまった世界旅行に出かけた。面倒を見なければならない弟と妹を抱え、残された遺産いさんも少なく、アルバスはとうてい私と一緒いっしょに出かけることなどできなくなっていた。

それからしばらくは、我々二人の人生の中で、最も接触せっしょくの少ない時期となった。私はアルバスに手紙を書き、いま考えれば無む神しん経けいにも、ギリシャで危あやうくキメラから逃れたことからエジプトでの錬れん金きん術じゅつ師しの実験に至いたるまで、旅先たびさきの驚くべき出来事を書き送った。アルバスからの手紙には、日常的なことはほとんど書かれていなかった。あれほどの秀才のことだ、毎日が味気あじけなく、焦しょう燥そう感かんに駆かられていたのではないか、と私は推察すいさつしていた。旅の体験にどっぷり浸つかっていた私は、一年間の旅の終わり近くになって、ダンブルドア一家をまたもや悲劇ひげきが襲おそったという報しらせを聞き、驚愕きょうがくした。妹、アリアナの死だ。

アリアナは長く病弱だった。とはいえ、母親の死に引き続くこの痛手は、兄弟二人に深刻しんこくな影響えいきょうを与えた。アルバスと近しい者はみな――私もその幸運な一人だが――アリアナの死と、その死の責せめが自分自身にあると考えたことがもちろん彼に罪はないのだが、アルバスに一生消えない傷痕きずあとを残したという一致いっちした見方をしている。

帰国後に会ったアルバスは、年齢ねんれい以上の辛酸しんさんを舐なめた人間になっていた。以前に比べて感情を表に出さず、快活かいかつさも薄うすれていた。アルバスをさらに惨みじめにしたのは、アリアナの死によって、アバーフォースとの間に新たな絆きずなが結ばれるどころか、仲違なかたがいしてしまったことだったその後この関係は修復しゅうふくする――後年こうねん、二人は親しいとは言えないまでも、気心きごころの通じ合う関係に戻った。しかしながら、それ以降いこうアルバスは、両親やアリアナのことをほとんど語らなくなったし、友人たちもそのことを口にしないようになった。

その後のダンブルドアの顕著けんちょな功績こうせきについては、他の著者ちょしゃの羽は根ねペンが語るであろう。魔法界の知識を豊かにしたダンブルドアの貢献こうけんは数えきれない。たとえば、ドラゴンの血液けつえきの十二の利用法などは、この先何世代にもわたって役立つであろうし、ウィゼンガモット最さい高裁こうさいの主しゅ席せき魔ま法ほう戦せん士しとして下した、数多くの名めい判決はんけつに見る彼の叡智えいちも然しかりである。さらに、いまだ、一九四五年のダンブルドアとグリンデルバルドとの決闘けっとうを凌しのぐものはないと言われている。決闘の目もく撃げき者しゃたちは、傑出けっしゅつした二人の魔法使いの戦いが、見る者をいかに畏い怖ふせしめたかについて書き残している。ダンブルドアの勝利と、その結果魔法界に訪れた歴史的な転換てんかんの重要性は、国こく際さい機き密みつ保ほ持じ法ほうの制定せいていもしくは「名前を言ってはいけないあの人」の凋落ちょうらくに匹敵ひってきするものだと考えられている。

アルバス・ダンブルドアは決して誇ほこらず、驕おごらなかった。誰に対しても、たとい傍目はためにはどんなに取るに足りない者、見下げ果てた者にでも、何かしら優すぐれた価値を見出した。若くして身内を失ったことが、彼に大いなる人間味と思いやりの心を与えたのだと思う。アルバスという友を失ったことは、私にとって言葉に尽つくせないほどの悲しみである。しかし、私個人の喪失そうしつ感かんは、魔法界の失ったものに比べれば何ほどのものでもない。ダンブルドアがホグワーツの歴れき代だい校こう長ちょうの中でも最も啓けい発はつ力りょくに富み、最も敬愛けいあいされていたことは疑いの余よ地ちがない。彼の生き方は、そのまま彼の死に方でもあった。常により大きな善ぜんのために力を尽つくし、最後の瞬しゅん間かんまで、私が初めて彼に出会ったあの日のように、龍痘ドラゴン・ポックスの少年に喜んで手を差し伸べたアルバス・ダンブルドアそのままであった。


    怀念阿不思·邓布利多埃非亚斯·多吉
    我是进入霍格沃茨的那天认识阿不思·邓布利多的,当时我十一岁。我们之所以相互吸引,无疑是因为我们都觉得自己是局外人。我入学前不久染上了龙痘疮,虽然不再传染,但我满脸痘疮,肤色发青,没有多少人愿意接近我。阿不思呢,他是顶着恶名的压力来到霍格沃茨的。就在不到一年前,他父亲珀西瓦尔凶残地袭击了三个年轻麻瓜,事情闹得沸沸扬扬。阿不思从不试图否认他父亲(在阿兹卡班终身监禁)犯有这桩罪行。相反,当我鼓起勇气问他时,他向我明确表示他知道父亲有罪。除此之外,邓布利多拒绝谈论这件令人伤心的事,虽然有许多人想套他的话,有人甚至津津乐道地赞扬他父亲的行为,并断定阿不思也是个仇视麻瓜的人。但是他们大错特错了。凡是认识阿不思的人都可以证明,他从未表露过丝毫反麻瓜倾向。事实上,他日后坚决维护麻瓜权益的做法为他树敌不少。
    几个月后,阿不思的名声就开始超过他父亲。第一学年快结束时,人们不再把他看作一个仇视麻瓜者的儿子,而是看作学校里一个前所未有的最聪明的学生。我们有幸成为他朋友的人,以他为榜样获益匪浅,更不用说他总是毫不吝啬地给我们以帮助和鼓励。他多年之后向我坦言,他当时就知道他最大的乐趣在于教书。
    他不仅赢得了学校颁发的各种重要奖项,而且很快就和当时最有名的魔法大师保持频繁的通信联系,包括著名炼金术士尼克·勒梅,知名历史学家巴希达·巴沙特,以及魔法理论家阿德贝·沃夫林。他的几篇论文刊登在《今日变形术》《魔咒创新》和《实用魔药大师》等学术刊物上。邓布利多的前途似乎一片辉煌,唯一的问题就是他什么时候出任魔法部长。在后来的日子里,虽然经常有人预言他将要担任这个职务,他却从来没有当部长的野心。
    我们入学三年后,阿不思的弟弟阿不福思也来到了霍格沃茨。兄弟两个不像。阿不福思从来不爱读书,而且,他喜欢决斗,不喜欢通过理性来协商来解决问题,这点也不像阿不思。不过,有人说兄弟俩关系不好。这也不符合事实。他们虽然性格迥异,相处还算和睦。替阿不福思说句公道话,必须承认生活在阿不思的阴影里不是件特别舒服的事。作为他的朋友,总是被他比得黯然失色,实在有伤士气;作为一个弟弟,肯定也不会愉快多少。
    阿不思和我离开霍格沃茨后,打算按当时的传统结伴周游世界,拜访和观察国外的巫师,然后再追求各自的事业。然而,悲剧从天而降。就在我们出发的前一天,阿不思的母亲坎德拉过世,阿不思成了一家之主,成了挣钱养家的顶梁柱。我推迟动身,参加了坎德拉的葬礼,然后一个人踏上了孤独的旅途。阿不思要照顾一对年幼的弟妹,家里生活拮据,他不可能和我结伴旅行了。
    在我们的一生中,那段时间接触最少。我给阿不思写信,描绘旅途中奇特见闻,从逃脱希腊的客迈拉「希腊神话中的狮头、羊身、蛇尾的吐火女怪」。到参观埃及炼金术士们的试验。我这么做也许太不善解人意了。他的信里很少提及他的日常生活,我猜想对于他这样一位出色的巫师来说,那肯定乏味得令人沮丧。我沉浸在自己的游历中,一年的旅行快要结束时,悲剧再次降临在邓布利多家里;他的妹妹阿利安娜死了。我听了万分震惊。
    虽说阿利安娜长期体弱多病,但母亲刚去世不久又遭此打击,阿利安娜的两个哥哥久久难以释怀。所有与阿不思亲近的人——我自己也有幸算在内——一致认为,阿利安娜的死,以及阿不思觉得自己对此事所负的责任(当然了,他实际上并无罪责),成为他终生无法摆脱的阴影。
    我回国后,看到的是一个年轻人经历了与他的年龄不相称的老人的痛苦。阿不思比以前更加沉默寡言,心情也沉重许多。更令他痛苦的是,阿利安娜的死不仅没有使阿不思和阿不福思的关系更加紧密,反而使他们变得疏远了。(这种疏远逐渐改善——后来他们重新建立了关系,即使不算亲密,无疑还算友好。)然而,从那以后,阿不思很少谈及他的父母和阿利安娜,他的朋友们也避免谈论他们。
    此后几年,他的辉煌成就自会有人去描述。邓布利多对巫术知识宝库所做的巨大贡献,包括发现龙血的十二种用途,还有他担任威森加摩首席魔法师时在许多判决中所展示的智慧,都会使后人受益。人们还说,没有一场巫师决斗能比得上一九四五年邓布利多与格林德沃之间的较量。那些目睹过这两位非凡巫师展开决战的人们,描绘了他们当时所感受到的恐惧和敬畏。邓布利多的胜利,及其对巫师界产生的影响,被看作是魔法历史上的一个转折点,堪与《国际保密法》的出台和神秘人的垮台相提并论。
    阿不思·邓布利多从不恃才傲物,追求虚荣。他总能发现别人身上值得珍视的东西,不管那个人表面看去多么落魄和不起眼。我相信,是他早年痛失亲人的经历,赋予了他博大的仁慈和悲悯之心。我将无比怀念他的友情,然而,跟整个巫师界相比,我个人的损失实在不算什么。毫无疑问,他是霍格沃茨历届校长中最有感召力、最受人爱戴的一位,无论活着时还是死去时,总是为更崇高的利益而工作,直到生命的最后一刻,就像我第一次见到他的那天,他向一个患龙痘疮的小男孩友好地伸出了手。

分享到:

顶部
11/24 15:49