闇を這うもの
相川青年はこの日頃、悪夢の世界をさまよい続けて来た。春川月子の虐殺、化物屋敷の壁に描かれた血の蠍、箱の中から聞える異様な歌声、叢に生えた
彼は何も見えない闇の中に、人間程の大きさの蠍を幻想した。蜘蛛の様な八本の長い足を、
コンクリートらしい、冷たくてザラザラした床を、守青年は、身を縮める様にして、呼吸の音とは反対の方角へ、ジリジリといざりながら、
「シッ、シッ」
と激しく、見えぬ獣を
すると、それに答える様に、闇の中にパッと光りものがして、ギラギラと輝く怪物の目が彼を睨みつけた。
「君は、相川君ではないかね」
意外にも、その光りものの奥から、獣が人間の言葉で呼びかけた。イヤ、獣でも、お化け蠍でもなく、それは一人の人間だった。この穴蔵には守の
「誰です、僕の名を知っているのは?」
守は、声の主を敵とも味方とも
「やっぱり相川君だったね。わしだよ」
相手の人物は、そう云いながら、懐中電燈の向きを変えて、我れと我顔を照らして見せた。
闇の中に、顎の下からの逆光線で、クローズ・アップされた老人の顔、モジャモジャした頭髪、顔を埋めた半白の
守は慄然として、息を呑まないではいられなかった。
いつの間に先廻りしたのだろう。何という素早さだ。そこに照らし出されたのは、
「アッ、貴様は!」
(さては、悪魔
守は不思議な昏迷に陥って、死にもの狂いの身構えをしたが、相手は早くもそれと気づいたのか、再び懐中電燈をこちらへさし向けた。
「イヤ、感違いをしてはいけない。君をひどい目に合わせた奴は、まだこの上の部屋にいる。わしのこの髯はつけ髯じゃない。わしが君の訪ねてくれた三笠だよ」
穴蔵の名探偵! これはまあ何とした事だ。
「ハハハ……、わしも君と同じ目に合ったのだよ。わしの作った陥穽へわし自身がつき落されたのだよ」
「本当ですか。先生まで、あいつの為に、……」
守はあっけに取られてしまった。あこがれの名探偵の、このみじめな姿に、悲惨をさえ感じた。だが、罠にかかった老探偵三笠龍介氏は、不思議なことに、少しもうろたえていなかった。ジメジメした穴蔵の底が、まるで居間ででもある様に、異様に落ちつき払っていた。
「わしが外出から帰ると、助手のトムが、相川さんから電話があって、十時頃に息子さんの守という人が来られると云うので、例の妖虫事件だなと、わしは君に会うのを楽しみに思っていたのです。そして、君を待受ける為に書斎へ入って見ると、部屋の隅に、もう一人のわしが、つまりわしに変装した奴が隠れていて、不意に陥穽の
「エ、先生は僕の妹を御存知ですか」
「ウン、噂を聞いていないでもない。君の妹さんのミス・トウキョウは、若い者の間では、なかなか有名だからね。君が訪ねて来ると聞いた時、わしはすぐ蠍を思い出し、その次には、君に有名な美人の妹さんがあることを思い浮べた。そして、君の用件が何だかということも、大方は推察していたのだよ。春川月子はミス・ニッポン、相川嬢はミス・トウキョウ。妖虫の奴、なかなか虚栄心が強いと見えるね」
暗闇の中の老探偵の声が、何かしら意味ありげに聞えた。流石は三笠龍介氏、守青年の用件を予知していたばかりか、彼の気づき得ない何かの秘密まで洞察しているかに感じられた。