水の底
にせ小説家の人見良吉と、大トランクをのせた自動車は、アパートを出発して、東へ、東へと走りました。人見がなにもさしずをしないのに、運転手は、かってに車を進めていきます。この運転手も、怪物の手下にちがいありません。
十五分も走ると、
人見が、どこかのスイッチをおすと、てんじょうからさがっているはだか電灯が、パッとつきました。建物の中には、こわれたつくえやいすなどがころがっていて、いっぽうのすみには、わらやむしろが、うず高くつんであります。
ふたりは、大トランクを、そのわらとむしろの中へかくしました。
「仕事は、真夜中だ。トランクの中のむすめさんは、さぞ腹がへっているだろうが、がまんをしてもらおう。いずれ、向こうへついたら、どっさり、ごちそうをたべさせてやるのだからね。じゃ、こんどは、れいのところへ、やってくれ。」
人見はそういって、運転手をうながして、外に出ると、倉庫のドアにかぎをかけ、そのまま自動車に乗って、どこともしれず立ちさりました。
さて、その夜の一時ごろ、人見は倉庫へ帰ってきました。倉庫のうらは、すぐ隅田川ですが、そのまっ暗な岸に、一そうの小船がついていました。人見は小船の
船頭は、ろをこいで、東京港のほうへ船を進めます。モーターもない旧式な船です。船の上には、トランクのほかに、みょうなものが積んであります。それは潜水服でした。しんちゅうでできた、大ダコの頭のような潜水カブトが、やみの中に、にぶく光っています。
人見は、船が岸をはなれるのを待って、へんなことをはじめました。
まず、ポケットから、たくさんのネジクギを出して、大トランクの息ぬきの穴へ、それを、ひとつ、ひとつねじこみ、すっかり、息がかよわないようにしてしまいました。トランクの中には、小林君がしのんでいるのです。こんなに、息をとめられたら、死んでしまうではありませんか。しかし、十分や二十分はだいじょうぶです。トランクの中の酸素が、すっかりなくなってしまうまでには、そのくらいの、よゆうがあるはずです。
穴をつめてしまうと、こんどは、船の中に用意してあった長い針金を、トランクのまわりに、グルグル巻きつけました。その針金のさきには、大きななまりのおもりが、いくつも、くくりつけてあるのです。
それから、人見は、背広の上から、潜水服を身につけました。しんちゅうの大ダコのような、ぶきみな頭、全身をつつむ、だぶだぶのゴム製の服、その足にも、大きななまりのおもりがついています。
船が勝鬨橋から東京港にむかって三百メートルも進んだころ、船頭はろをこぐのをやめて、船をとめました。あたりはまっ暗です。ずっと向こうに、東京湾汽船発着所のあかりが見えています。
船の中では、潜水服を着た人見と、船頭とが、針金を巻いて、おもりをつけたトランクを、やっこらさと、ふなばたに持ちあげ、そのまま、ドブーンと、水の中へ落としてしまいました。
ああ、小林少年は、川にほうりこまれたのです。もう助かるみこみはありません。小林君はマユミさんの身がわりになって、とうとう、殺されてしまうのでしょうか。
トランクをほうりこむと、つぎに潜水服の人見が、手に小さい水中灯をさげて、ふなばたを乗りこえ、水の中へはいりました。ふつうの潜水服とちがって、空気を送る
足から腰、腰から腹、腹から胸と、まっ黒な水の中へ沈んでいき、やがて、大ダコの頭も、見えなくなってしまいました。あとには、水面にぶくぶくと、白いあわが浮きあがってくるばかりです。
のぞいてみると、水面の下のほうが、ボーッと明るくなっています。人見がさげている水中灯の光です。しかし、その光も、だんだん底のほうに沈んでいって、ついに見えなくなってしまいました。