二
先にも一寸触れて置いたが、かくも人厭いな柾木愛造にも、例外として、たった一人の友達があった。それは、実業界に一寸名を知られた父の威光で、ある商事会社の支配人を勤めている、池内光太郎という、柾木と同年輩の青年紳士であったが、あらゆる点が柾木とは正反対で、明るい、社交上手な、物事を深く掘下げて考えない代りには、末端の神経はかなりに鋭敏で、人好きのする、好男子であった。彼は柾木と家も近く小学校も同じだった関係で、幼少の頃から知合いであったが、お互が青年期に達した時分、柾木の不可思議な思想なり言動なりを、それが彼にはよく分らない丈けに、すっかり買いかぶってしまって、それ以来引続き、柾木の様な哲学者めいた友達を持つことを、一種の見得にさえ感じて、柾木の方では寧ろ避ける様にしていたにも拘らず、繁々と彼を訪ねては、少しばかり見当違いな議論を吹きかけることを楽しんでいたのである。また、華やかな社交に慣れた彼にとっては、柾木の陰気な書斎や、柾木の人間そのものが、こよなき休息所であり、オアシスでもあったのだ。
その池内光太郎が、ある日、柾木の家の十畳の客間で、(柾木はこの唯一の友達をさえ、土蔵の中へ入れなかった)柾木を相手に、彼の華やかな生活の一断面を吹聴している内に、ふと次の様なことを云い出したのである。
「僕は最近、木下芙蓉って云う女優と近づきになったがね。一寸美しい女なんだよ」彼はそこで一種の微笑を浮べて、柾木の顔を見た。それはここに云う「近づき」とは、文字のままの「近づき」でないことを意味するものであった。「まあ聞き給え、この話は君にとっても一寸興味があり相なんだから。と云うのは、その木下芙蓉の本名が木下文子なんだ。君、思い出さないかい。ホラ、小学校時代僕等がよくいたずらをした、あの美しい優等生の女の子さ。たしか、僕達より三年ばかり下の級だったが」
そこまで聞くと、柾木愛造は、ハッとして、俄かに顔がほてって来るのを感じた。流石に彼とても、二十七歳の今日では、久しく忘れていた赤面であったが、ああ赤面しているなと思うと、丁度子供の時分、涙を隠そうとすればする程、一層涙ぐんで来たのと同じに、それを意識する程、益々目の下が熱くなってくるのをどうすることも出来なかった。
「そんな子がいたかなあ。だが、僕は君みたいに早熟でなかったから」
彼はてれ隠しに、こんなことを云った。だが、幸なことに、部屋が薄暗かったせいか、相手は、彼の赤面には気づかぬらしく、やや不服な調子で、
「いや、知らない筈はないよ。学校中で評判の美少女だったから。久しく君と芝居を見ないが、どうだい、近い内に一度木下芙蓉を見ようじゃないか。幼顔そのままだから、君だって見れば思い出すに違いないよ」
と、如何にも木下芙蓉との親交が得意らしいのである。
芙蓉の芸名では知らなかったけれど、云うまでもなく、柾木愛造は、木下文子の幼顔を記憶していた。彼女については、彼が赤面したのも決して無理ではない程の実に恥しい思出があったのである。
彼の少年時代は、先にも述べた通り、極度に内気な、はにかみ屋の子供であったけれど、彼の云う様に早熟でなかった訳でなく、同じ学校の女生徒に、幼いあこがれを抱くことも人一倍であった。そして、彼が四年級の時分から、当時の高等小学の三年級までも、ひそかに思いこがれた女生徒というのが、外ならぬ木下文子だったのである。と云っても、例えば池内光太郎の様に、彼女の通学の途中を擁して、お下げのリボンを引きちぎり、彼女の美しい泣き顔を楽しむなどと云う、すばらしい芸当は、思いも及ばなかったので、風を引いて学校を休んでいる時など、発熱の為にドンヨリとうるんだ脳の中を、文子の笑顔ばかりにして、熱っぽい小さな腕に、彼自身の胸を抱きしめながら、ホッと溜息をつく位が、関の山であった。
ある時、彼の幼い恋にとって、誠に奇妙な機会が恵まれたことがある。それは、当時の高等小学二年級の時分で、同級の餓鬼大将の、口髯の目立つ様な大柄な少年から、木下文子に(彼女は尋常部の三年生であった)附文をするのだから、その代筆をしろと命じられたのである。彼は勿論級中第一の弱虫であったから、この腕白少年にはもうビクビクしていたもので、「一寸こい」と肩を掴まれた時には、例の目に涙を一杯浮べてしまった程で、其命令には、一も二もなく応じる外はなかった。彼はこの迷惑な代筆のことで胸を一杯にして、学校から帰ると、お八つもたべないで、一間にとじ籠り、机の上に巻紙をのべ、生れて初めての恋文の文案に、ひどく頭を悩ましたものである。だが、幼い文章を一行二行と書いて行くに従って、彼に不思議な考が湧上って来た。