十二
三日ばかり小康が続いたあとには、恐ろしい破綻が待ち受けていた。その間死体に別段の変化が現われなかったばかりでなく、不思議なお化粧の為とは云え、彼女の肉体が前例なき程妖艶に見えたというのは、例えば消える前の蝋燭が、一時異様に明るく照り輝く様なものであった。いまわしき蟲共は、表面平穏を装いながら、その実死体の内部に於て、幾億の極微なる吻を揃え、ムチムチと、五臓を蝕み尽しているのであった。
ある日、長い眠りから目覚めた柾木は、芙蓉の死体に非常な変化が起っているのを見て、余りの恐ろしさに、あやうく叫び出す所であった。
そこには、最早や昨日までの美しい恋人の姿はなくて、女角力の様な白い巨人が横わっていた。身体がゴム鞠の様にふくれた為に、お化粧の胡粉が相馬焼みたいに、無数の○○○○○○○○、網目の間から、褐色の肌が気味悪く覗いていた。顔も巨大な赤ん坊の様にあどけなくふくれ上って、空ろな目から、半開の唇から、(十九字削除)柾木は嘗つてこの死体膨脹の現象について記載されたものを読んだことがあった。目に見えぬ極微な有機物は、群をなして腸腺を貫き、之を破壊して血管と腹膜に侵入し、そこに瓦斯を発生して、組織を液体化する醗酵素を分泌するのだが、この発生瓦斯の膨脹力は驚くべきものであって、死体の外貌を巨人と変えるばかりでなく、横隔膜を第三肋骨の辺まで押上げる力を持っている。同時に体内深くの血液を、皮膚の表面に押し出し、彼の吸血鬼の伝説を生んだ所の、死後循環の奇現象を起すことがある。
遂に最後が来たのだ。死体が極度まで膨脹すれば次に来るものは分解である。皮膚も筋肉も液体となって、ドロドロ流れ出すのだ。柾木はおどかされた幼児の様に、大きなうるんだ目で、キョロキョロとあたりを見廻し、今にも泣き出し相に、キュッと顔をしかめた。そして、そのままの表情で、長い間じっとしていた。
暫くすると、彼は突然何か思出した様子で、ピョコンと立上ると、せかせか本棚の前へ行って、一冊の古ぼけた書物を探し出した。背皮に「木乃伊」と記されていた。そんなものが今更何の役にも立たぬ事は分り切っていたにも拘らず、命をかけた恋人が、刻々に蝕まれて行くいらだたしさに、物狂わしくなっていた彼は、熱心にその書物の頁をくって、とうとう次の様な一節を発見した。
「最も高価なる木乃伊の製法左の如し。先ず左側の肋骨の下を深く切断し、其傷口より内臓を悉く引き出だし、唯心臓と腎臓とを残す。又、曲れる鉄の道具を鼻口より挿入して、脳髄を残りなく取出し、かくして空虚となれる頭蓋と胴体を棕梠酒にて洗浄、頭蓋には鼻孔より没薬等の薬剤を注入し、腹腔には乾葡萄其他の物を填充し、傷口を縫合す。かくして、身体を七十日間曹達水に浸したる後、之を取出し、護謨にて接合せる麻布を以て綿密に包巻するなり」
彼は幾度も同じ部分を読返していたが、やがて、ポイとその本を放り出したかと思うと、頭のうしろをコツコツと叩きながら、空目をして、何事か胴忘れした人の様に、「なんだっけなあ、なんだっけなあ、なんだっけなあ」と呟いた。そして、何を思ったのか、突然階段をかけ降り、非常な急用でも出来た体で、そそくさと玄関を降りるのであった。
門を出ると、彼は隅田堤を、何ということもなく、急ぎ足で歩いて行った。大川の濁水が、ウジャウジャと重なり合った無数の虫の流れに見えた。行手の大地が、匍匐する微生物で、覆い隠され、足の踏みどもない様に感じられた。
「どうしよう、どうしようなあ」
彼は歩きながら、幾度も幾度も、心の苦悶を声に出した。或る時は、「助けてくれエ」と大声に叫び相になるのを、やっと喉の所で喰い止めねばならなかった。
どこをどれ程歩いたのか、彼には少しも分らなんだけれど、三十分も歩き続けた頃、余りに心の内側ばかりを見つめていたので、つい爪先がお留守になり、小さな石につまずいて、彼はバッタリ倒れてしまった。痛みなどは感じもしなかったが、その時ふと彼の心に奇妙な変化が起った。彼は立上る代りに、一層身を低く土の上に這いつくばって、誰にともなく、非常に叮嚀なおじぎをした。
変な男が、往来の真中で、いつまでもおじぎをしているものだから、たちまち人だかりになり、通りがかりの警官の目にも止った。それは親切な警官であったから、彼を助け起して、住所を聞き、気違いとでも思ったのか、態々吾妻橋の所まで送り届けてくれたが、警官と連れ立って歩きながら、柾木は妙なことを口走った。
「お巡さん。近頃残酷な人殺しがあったのを御存じですか。何故残酷だといいますとね。殺された女は、天使の様に清らかで、何の罪もなかったのです。と云って、殺した男もお人好しの善人だったのです。変ですね。それはそうと、私はその女の死骸のある所をちゃんと知っているのですよ。教えて上げましょうか。教えて上げましょうか」
だが、彼がいくらそのことを繰返しても、警官は笑うばかりで、てんで取合おうともしなかったのである。
それから数日の後、柾木がまる二日間食事に降りて来ないので、婆やが心配をして家主に知らせ、家主から警察に届出で、あかずの蔵の扉は、警官達の手によって破壊された。薄暗い土蔵の二階には(むせ返る死臭と、おびただしい蛆虫の中に)二つの死骸が転っていた。その一人は直ぐ主人公の柾木愛造と判明したけれど、もう一人の方が、行衛不明を伝えられた、人気女優木下芙蓉の、なれの果てであることを確めるには、長い時間を要した。何故と云って、彼女の死体は殆ど腐敗していた上に、腹部が無残に傷けられ、腐りただれた内臓が醜く露出していた程であったから。柾木愛造は(芙蓉の死毒によって命を奪われたとの判定であった)露出した芙蓉の腹わたの中へ、うっぷしに顔を突込んで死んでいたが、恐ろしいことには、彼の醜く歪んだ、断末魔の指先が、恋人の脇腹の腐肉に、執念深く喰い入っていた。