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薔薇夫人(1)_江户川乱步短篇集_江户川乱步_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29  点击:3370

薔薇夫人

江戸川乱歩


 青山浩一は、もと浜離宮であった公園の、海に面する芝生に腰をおろして、そこに停泊している幾つかの汽船を、ボンヤリと眺めていた。うしろに真赤な巨大な太陽があった。あたりは見る見る夕暮の色をおびて行った。ウイーク・デイのせいか。ときたま若い二人づれが通りかかるほかには、全く人けがなかった。
 伯父のへそくりを盗み出した五万円は、十日間の旅行で遣いはたしてしまった。ポケットには、辛うじて今夜の家賃に足りるほどの金が残っているばかりだ。
 温泉から温泉へと泊りあるいて、二十一才の彼にやれることは、なんでもやって見たが、どれもこれも、今になって考えると、取るに足るものは一つもなかった。あの山、この谷、あの女、この女、ああつまらない。生きるに甲斐なき世界。
 伯父の家へは二度と帰れない。勤め先へ帰るのもいやだ。自転車商会のゴミゴミした事務机と、その前にたち並んでいる汚れた帳簿を思い出すだけでも、吐き気を催した。
 暮れて行く海と空を、うつろに眺めていると、またあの幻が浮かんで来た。空いっぱいの裸の女、西洋の絵にある聖母と似ているが、どこかちがう。もっと美しくなまめかしい。情慾に光りかがやいている。青年は、あの美しい女に呑まれたいと思った。鯨に呑まれるように、腹の中へ呑まれたいと思った。
 本当をいうと、彼は少年時代から、この幻想に憑かれていた。夢にもよく見た。中学校の集団旅行で、奈良の大仏を見たときには、恍惚として目がくらみそうになった。鎌倉の大仏はもっと実感的であった。あの体内へはいった時の気持が忘れられないで、ただそれだけのために、三度も四度も鎌倉へ行ったほどだ。あの中に住んでいられたら、どんなによかろうと思った。
「いよいよ、おれもせっぱつまったなあ。自殺する時が来たのかな」
 青山浩一は、絶えず心の隅にあったことを、口に出して云って見た。彼には、温泉めぐりをしているあいだも、この金を遣いはたしたら自殺だという想念が常にあった。その想念には何か甘い味があった。
 じっと前の海を見つめていたが、飛び込む気には、なれなかった。いよいよのどたんばまでには、まだ少しあいだがあると思った。その一(すん)のばしが、目覚し時計の音をきいてから、蒲団の中にもぐっているように、何とも云えず物憂く、ここちよかった。
 もう海と空の見さかいがつかぬほど、暗くなっていた。汽船たちのマストの上の燈火が、キラキラと美しくきらめき出した。「ひとりぼっちだなあ……」たまらない孤独であった。今朝上野駅について、浅草と有楽町で、映画を二つ見た。映画館の群衆は、自分とは全く違った別世界の生きもののように見えた。それから、銀座通りを、京橋から新橋まで、三度ほど行ったり来たりした。じっとしていられなかったからだ。そこを通っている人達も、まるで異国人であった。
 少し寒くなって来た。秋だ。落葉の期節(〔ママ〕)に近づいていた。浩一は立上ると、うつろな顔で歩き出した。あてどもなく、足の向くままに歩いていると、賑かな新橋の交叉点に出た。やっぱり心の奥では群衆を恋しがっていたのだ。
 歩道の群衆にまじって、その人むれの中に溶けこんで消えてしまいたいと思いながら、尾張町の方へ歩いていた。「こうして、永遠に歩いていられたら」と願った。しかし、夜が更けると銀座は電車のレールの目立つ廃墟になることを知っていた。それが恐ろしかった。
 群衆と同じように、ショーウインドーを覗きながら歩いていたが、目には何も映らなかった。キラキラした、彼とは何の縁もない品物が、無意味に並んでいるにすぎなかった。
 ふと、彼は立ちどまった。鋭く網膜に焼きついたものがあったからだ。明るいショーウインドーの前に立ちどまっていた顔、西洋人のように大柄な美しい洋装の婦人であった。彼がまだ悪事を働かない前、やはり銀座で、行きずりに二度あったことがある。二度ということをハッキリ覚えていた。どこか贅沢な家庭の奥さんらしいが、その顔と姿に、忘れられないようなものがあった。
 浩一は、殆んど無意識にその婦人のあとをつけていた。相手に気づかれたって平気だと思っていた。そんなことは、もうどうでもよかった。婦人には連れはなかった。のんきらしく、ノロノロと歩いていた。
 町角に洋菓子のようにきれいな喫茶店があった。婦人は、どうしようかと、ちょっと迷ったあとで、その店へ入って行った。青年も糸で引かれるように、あとに従がった。
 婦人は奥まった、そばに客のいないテーブルについたので、浩一も〔そ〕の方へ歩いて行って、すぐとなりのテーブルに腰かけた。
 婦人は尾行されたことを、とっくに知っていたのかも知れない。いきなり青年の顔を正面から見て、ニッコリ笑った。
「前に二三度お目にかかったわね。あたし、よく覚えているでしょう」
 浩一は思わずドキマギした。こんな親しげな口を利いてもらえるとは、全く予期しなかった。それに、先方でこちらをよく記憶していてくれたことがわかって、ジーンと耳鳴りがした。顔が赤くなったのが意識された。
「こちらへ、いらっしゃらない? あなたの目、今日は変よ。何かあったんじゃない?」
 顔で、となりの椅子へ来るように合図されたので、浩一はそこへ移った。
「ねえ、何かあったんでしょう。あなたの目、孤独の目よ、生き甲斐がないって目よ。ねえ、どうかしたの? 失職したんじゃない?」
 婦人が物を言ったり、身動きしたりするたびに、いい匂いが漂って来た。彼女のきれいな歯ぐきと、バラ色の(くちびる)から、その匂が漏れてくるように感じられた。
「失職よりも、もっと悪いことです」
 浩一は、低い声で、すてばちのように呟いた。
「悪いことって?」
 婦人は、口で笑いながら、ちょっと眉をしかめて見せた。そのしかめた顔が、浩一には恐ろしく魅惑的に見えた。
「どろぼうです。盗んだんです」
「マアーっ」
 婦人は息を引いて見せたが、その実、大して驚いているようでもなかった。
「そして、その金を遣いはたしてしまったんです」
「じゃあ、せっぱつまってるのね。それで、そんな目をしているのね。あなた自殺しそうだわ。ね、ここじゃ駄目だから、あたしのうちへいらっしゃい。ゆっくり相談しましょう。いいでしょ。今のあなたは、どこへでもついて来る心境だわ。そうでしょう」
「ほかの人に会いたくないんです」
 浩一は婦人の夫や子供や召使のことを考えていた。


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12/01 07:24