「もちろん、そんなこと分かっているわ。あたしは家族なんてないのよ。ひとりぼっちで、アパートにいるのよ」
婦人は飲み物を半分ほど残したまま、立上ってカウンターの方へ行くので、浩一もそのあとにつづいた。
婦人は横丁で車を拾って、「麹町一口坂の都電停留〔所〕のそば」と命じた。車の中では殆んど口を利かなかった。浩一は二人の服地を通して伝わって来る柔い温味に、気を奪われていた。
それは高級ホテルのようなアパートであった。小さな窓のある監理人の部屋の前を通って、階段を上ると、二階の広い廊下のはじに婦人の部屋があった。婦人は手提から鍵をとり出してドアを開き、電燈のスイッチをおしたが、フックラとした肘掛椅子と長椅子、赤い模様の立派な絨氈、それが居間で、次の部屋が寝室らしく、立派なベッドのはじが見えていた。
「ちょっと、手を洗って来ますから、そこに掛けてて」
婦人は寝室の中へ姿を消した。そちらに浴室もあるらしく思われた。
十分ほど待たせて出てきた時には、黒ビロードのナイトガウンのようなものと着がえていた。そして、小さな銀盆の上に洋酒の壜とグラスを二つのせたのを持っていた。浩一に向き合った椅子にかけて、グラスに手ぎわよく洋酒をつぎ、その一つを彼の方にさし出しながら、突然、
「あなたご両親は?」
とたずねた。
ビロードのガウンには、真赤な絹の裏がついていた。身動きをするたびに、それがめくれて、つややかな二の腕や足が見えた。ガウンの下には何も着ていないらしく、からだ全体の線が、柔かいビロードごしに、そのまま眺められた。なんてすばらしいからだだろうと思った。ふと、あの聖母に似て、聖母よりもなまめかしい裸女の巨像が、浩一の頭をかすめた。
「両親なんてないのです」
グラスの強い酒が、浩一ののどをカッとさせた。彼はおとぎ噺の主人公でもなったような気持だった。おとぎ噺の中では、或いは映画の画面では、浩一に当る青年は、どんなしぐさをするのだろうと思ったりした。
「ぼくは、親も兄弟もないんです。伯父の世話で大きくなったのですが、その伯父もひとりものなんです。伯母は早くなくなったのです。この伯父とぼくは全く気が合わないのです。ぼくは自転車の卸しをする店に勤めていたんですが、その店もゾッとするほど、いやなんです。それで、やけくそになったんです」
「それで、お金を盗んだの?」
「伯父のへそくりです。伯父の全財産です。伯父は紙袋を貼る機械を一台持っていて、やっと暮らしているのです。コツコツためた、伯父にとっては命よりもだいじな金です。ぼくは、伯父が隠していた銀行の通帳とハンコを探し出したのです。五万円ほどありました……」
「それを遣いはたしたのね。楽しかった?」
「いつも自殺する一歩前でした。そういう楽しさはありました」
「盗んでから、どのくらいになるの?」
「十日ほどです」
「よくつかまらなかったのね」
「伯父は警察にたのまなかったかも知れません。へそくりをとられて、伯父は病気になるほど驚いたでしょう。ほんとうに病気になって、今でも寝ているかも知れません。しかし、伯父はぼくを実子のように愛しているので、警察に云わないで我慢しているような気がします。あわれな伯父です」
「可哀相に思うの?」
「可哀相です。しかし、ぼくはあの人の顔を二度と見たくありません。ゾッとするほど嫌いなのです」
「かわってるのね。一等親しい人が、一等きらいなのね。……お友達は?」
「ありません。みんなぼくとは、ちがう人間です。ぼくの気持のわかるやつなんて、ひとりもいません。奥さん、あなただって、ぼくの気持、わかりっこありませんよ」
「まあ、奥さんだなんて。あたし、奥さんに見えて?」
「じゃあ、なんです」
「あなたと同じ、ひとりぼっちの女よ。まだ名前を云わなかったわね。あたし、相川スミエっていうの。親から譲られたお金で、勝手な暮らしをしているのよ。あなたのお友達になってあげるわ。あんまりひとりぼっちで、可哀相だもの」
婦人は立上って、浩一のかけている長椅子に席をかえた。そのとき、バンドをしめていないガウンの前が、フワッと胸までひらいて、桃色の全身が、チラリと見えた。やっぱり下には何も着ていなかった。その一目が、浩一を電気のように撃った。全身のうぶ毛が総毛立つような気がした。
婦人の手が自分の肩を抱いているのを感じた。浩一は両手で顔をおさえて、長いあいだ黙っていた。やがて、彼の肩が妙にふるえ、両手の中から、少女が笑っているような声が漏れた。そして、手の指のあいだから、キラキラ光るものが、にじみ出して来た。
婦人は黙ってそれを見ていた。したいようにさせておいた。
浩一はやっと泣きやんで、涙にぬれた顔をあげた。そして、低い鼻声で、恥かしそうに云った。
「なぜ泣いたかわかりますか。…………あなたが好きだからです」
彼は激情のためにブルブルふるえていた。
「もういいのよ。泣かないで。あなたの気持よくわかるわ。あたしだって、好きよ。涙にぬれた顔、まるで違うように見えるわ。美しいのよ。あなた、自分の美しさを知っていて?……あなたのような人に会ったの、はじめてよ」
婦人は浩一の髪の毛を、もてあそんでいた。
(以下二百字詰原稿用紙七枚脱落)
目色でわかった。
「九時カッキリよ。わけがあるの。忘れないで」
ドアの外まで見送って、彼女はそれを彼の耳のそばに、くりかえしていた。
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