三
私は生れてから、あのような妙な気持を味ったことがありません。それは、まっくらな部屋なのです。そこの、寄木細工の滑かな床の上を、樹の肌を叩いている無数の啄木鳥のように、コツコツコツコツと、不思議なリズムをなして、私達の靴音が走っています。そして、ダンス伴奏にはふさわしくない、寧ろ陰惨な、絃楽またはピアノのレコードが、地の底からのように響いています。目が闇になれるに従って、高い天井の広間の中を、暗いため一層数多く見える、沢山の人の頭が蠢いているのが、おぼろげに見えます。それが、広間のところどころに、巨人のように屹立した、数本の太い円柱をめぐって、チラチラと入乱れている有様は、地獄の饗宴とでも形容したいような、世にも奇怪な感じのものでありました。
私は、この不思議な情景の中で、どことなく見覚えのある、しかしそれが誰であるかは、どうしても思出せない一人の婦人と、手を執り合って踊っているのです。そして、それが夢でも幻でもないのです。私の心臓は、恐怖とも歓喜ともつかぬ一種異様の感じを以て烈しく躍るのでありました。
私は相手の婦人に対して、どんな態度を示すべきかに迷いました。若しそれが売女のたぐいであるなれば、どのような不作法も許されるでありましょう。が、まさかそうした種類の婦人とも見えません。では、それを生業にしている踊女のたぐいででもありましょうか。いやいや、そんなものにしては、彼女はあまりにしとやかで、且つ舞踏の作法さえ不案内のように見えるではありませんか。それなら、彼女は堅気の娘或はどこかの細君ででもありましょうか。もしそうだとすると、井関さんの今度のやり方は、余りに御念の入った、寧ろ罪深い業と云わねばなりません。
私はそんなことを忙しく考えながら、兎も角も皆と一緒に廻り歩いておりました。すると、ハッと私を驚かせたことには、そうして歩いている間に、相手の婦人の一方の腕が、驚くべき大胆さを以て、スルスルと私の肩に延ばされたではありませんか。しかもそれは、決して媚を売る女のやり方ではなく、と云って、若い娘が恋人に対する感じでもなく、少しのぎこちなさも見せないでさもなれなれしく、当然のことのように行われたのであります。
間近く寄った彼女の覆面からは、軽くにおやかな呼吸が、私の顔をかすめます。滑かな彼女の絹服が、なよなよと、不思議な感触を以て、私の天鵞絨の服にふれ合います。このような彼女の態度は俄に私を大胆にさせました。そして、私達は、まるで恋人同志のように、無言の舞踏を踊りつづけたことであります。
もう一つ私を驚かせたのは、闇をすかして外の踊手達を見ますと、彼等も亦、私達と同じように、或は一層大胆に、決して初対面の男女とは思えないような踊り方をしていることでありました。一体まあ、これは何という気違い沙汰でありましょう。そうしたことに慣れぬ私は身も知らぬ相手と、暗闇の中で踊り狂っている自分が、ふと空恐しくなるのでした。
やがて、丁度皆が踊り疲れた頃に、蓄音器の奏楽がハタと止って、先程のボーイの声が聞えました。
「皆様、次の部屋に、飲み物の用意が出来ましてございます。暫くあちらで御休息くださいますようお願い致します」
声につれて境のドアが左右に開かれ、まぶしい光線がパッと私達の目をうちました。
踊手達は、司会者の万遺漏なき心くばりを感じながら、しかし無言のまま、一対ずつ手をとり合って、その部屋へ入るのでした。広間には比ぶべくもありませんが、でも相当広い部屋に、十七箇の小食卓が、純白のクロースに覆われて、配置よく並んでいました。ボーイの案内につれて、私と私の婦人とは、隅の方のテーブルにつきました。見ると、給仕人はなくて、各々のテーブルの上に、二つのグラスと二本の洋酒の瓶が置かれてあります。一本はボルドウの白葡萄酒、他の一本は無論男のために用意せられたものですが、三鞭酒などではなく、何とも知れぬ不思議な味の酒でした。
やがて奇怪な酒宴が開かれました。堅く言葉を発することを禁じられた私達は、まるで唖者のように黙々として、杯を満たしては飲み、満たしては飲みしました。婦人達も勇敢に葡萄酒のグラスをとるのでした。
それは可なり強烈な酒であったと見え、間もなく私は烈しい酔を覚えました。相手の婦人に、葡萄酒をついでやる私の手が、瘧のように震えて、グラスの縁がカチカチと鳴りました。私は思わず変なことを怒鳴りそうになっては、慌てて口をつぐみました。私の前の覆面の女は、口までも覆った黒布を片手で少し持上げて、つつましく杯を重ねました。そして、彼女も酔ったのでしょう。覆面をはずれた美しい皮膚は、もう真赤になっておりました。
そうして、彼女を見ている内に、私はふと私のよく知っている、ある人を思い浮べました。彼女の頸から肩の線が、見れば見る程、その人に似ているのです。しかし、その私の知っている人が、まさかこんな場所へ来る筈はありません。最初から、何となく見たようなと感じたのは、恐らく私の気の迷いに過ぎなかったのでしょう。世の中には、顔でさえも瓜二つの人があるくらいです。姿勢が似ていたからとて、迂濶に判断を下すことはできません。
それは兎も角、無言の酒宴は、今や酣と見えました。言葉を発するものこそありませんけれど、室内はグラスの触れ合う響、衣ずれの音、言葉を為さぬ人声などで、異様にどよめいて来ました。誰も彼も、非常に酔っているように見えました。若しあの時、ボーイの口上が少しでもおくれたなら、誰かが叫び出したかも知れません。或は誰かが立上って踊り出したかも知れません。が、流石は井関さんの指図です。最も適当な時機にボーイが現れました。
「皆様、お酒が済みましたら、どうか踊り場の方へお引上げを願います。あちらではもう、音楽が始っております」
耳をすますと、隣の玄関からは、酔客達の心をそそるように、前とはガラリと変った快活な、寧ろ騒々しい管絃楽が響いて来ました。人々は、その音楽に誘われるようにゾロゾロと広間に帰りました。そして、以前に数倍した物狂わしき舞踏が始まるのでした。
あの夜の光景を、何と形容したらいいでしょう。耳も聾せんばかりの騒音、闇の中に火花が散るかと見える無数の乱舞、そして意味のない怒号、私の筆では到底、ここにその光景を描き出すことはできません。のみならず、私自身も、四肢の運動につれて発した、極度の酔に正気を失って、人々が、また私自身が、どのような狂態を演じたかを、殆ど記憶しないのであります。