四
焼けるような喉の乾きを覚えて、ふと目を覚すと、私は、私の寝ていた部屋が、いつもの自分の寝室でないことに気づきました。さては、昨夜踊り倒れて、こんな家へ担ぎ込まれたのかな。それにしても、この家は一体全体どこだろう。見ると、枕許の手の届く所へ、呼鈴の紐が延びています。私は兎も角、人を呼んで聞いて見ようと思い、その方へ手を伸しかけて、ふと気がつくと、そこの煙草盆の側に、一束の半紙が置かれ、その一番上の紙に何か鉛筆の走り書きがしてあるのです。好奇心のまま読みにくい仮名文字を、何気なく拾って見ますと、それは次のように認めてありました。
「あなたは随分ひどい方です。お酒の上とは云えあんな乱暴な人とは知りませんでした。しかし今更ら云っても仕様がありません。私はあれは夢であったと思って忘れます。あなたも忘れて下さい。そして、このことは井上には絶対に秘密を守って下さい。お互のためです。私はもう帰ります。春子」
それを読んで行くうちに、寐ぼけていた頭が、一度にハッキリして、私は何もかも悟ることができました。「あれは、私の相手を勤めた婦人は、井上次郎の細君だったのか」そして、云い難き悔恨の情が、私の心臓をうつろにするかと怪まれました。
泥酔していたとはいえ、夢のように覚えています。昨夜、闇の乱舞が絶頂に達した頃、例のボーイが、そっと私達の側へ来て囁きました。
「お車の用意が出来ましてございます。御案内致しましょう」
私は婦人の手を携えて、ボーイのあとにつづきました。(どうして、あの時、彼女はあんなに従順に、私に手を引かれていたのでしょう。彼女もまた酔っていたのでしょうか)玄関には一台の自動車が横づけになっていました。私達がそれに乗ってしまうと、ボーイは運転手の耳に口をつけて、「十一号だよ」と囁きました。それが私達の組合せの番号だったのです。
そして、多分ここの家へ運ばれたのです。その後のことは一層ぼんやりして、よくは分りませんけれど、部屋へ入るなり、私は自分の覆面をとったようです。すると、相手の婦人は「アッ」と叫んで、いきなり逃げ出そうとしました。それを夢のように思出すことができます。でもまだ、酔いしれた私は、相手が何者であるかを推察することができなかったのです。凡て泥酔のさせた業です。そして、今この置手紙を見るまで、私は彼女が友人の細君であったことさえ知らなかったのです。私は何という馬鹿者でありましょう。
私は夜の明けるのを恐れました。もはや世間に顔の出せない気がします。私はこの次、どういう態度で井上次郎に逢えばいいのでしょう。また当の春子さんに逢えばいいのでしょう。私は青くなってとつおいつ、返らぬ悔恨に耽りました。そういえば、私は最初から相手の婦人にある疑いを持っていたのです。覆面と変装とに被われていたとはいえ、あの姿形は、どうしても春子さんに相違なかったのです。私はなぜもっと疑って見なかったのでしょう。相手の顔を見分けられぬ程も泥酔する前に、なぜ彼女の正体を悟り得なかったのでしょう。
それにしても、井関さんの今度のいたずらは、彼が井上と私との親密な関係を、よく知らなかったとはいえ、殆ど常軌を逸していると云わねばなりません。たとい私の相手が他の婦人であったにしても、許すべからざる計画です。彼はまあ、どういう気で、こんなひどい悪企みを目論んだのでありましょう。それにまた、春子さんも春子さんです。井上という夫のある身が、知らぬ男と暗闇で踊るさえあるに、このような場所へ運ばれるまで黙っているとは、私は彼女がそれほど不倫な女だとは、今の今まで知りませんでした。だが、それは皆私の得手勝手というものでしょう。私さえあのように泥酔しなかったら、こんな、世間に顔向けもできないような、不愉快な結果を招かずとも済んだのですから。
その時の、なんとも云えぬ不愉快な感じは、いくら書いても足りません。兎も角、私は夜の明けるのを待ち兼ねて、その家を出ました。そして、まるで罪人ででもあるように、白粉こそ落しましたけれど、殆ど昨夜のままの姿を車の幌に深く隠して家路についたことであります。