餓鬼道
併し、これは賊とは云え、他人の宝ではないか。大牟田子爵ともあろうものが、賊の盗みためた財産を横取りする訳には行かぬ。そうだ、警察へ知らせてやろう。海賊には恨まれるかも知れぬけれど、これ丈けの財宝を、徒らに埋もれさせて置くのは意味のないことだ。よしよし、それに極めた。
わしは自りで合点しながら、その警察へでも出頭する気か、フラフラと立上って、歩き出そうとした。そして、ハッと我に返った。
馬鹿奴、何を考えているのだ、警察どころか、一歩だって、この穴蔵から出ることは出来ぬではないか。
「金ならいくらでもやる。助けてくれ」
若しこれが人里離れた穴蔵でなかったら、一言叫びさえすれば、四方から救いの手が集まって来るだろう。
「わしは、百万円持っている。これをみんなやるから、ここから出してくれ」
若しこの穴蔵に主人があって、わしが監禁されているのであったら、その一言で、たちまち自由の身となることが出来るものを。
と思うと、巨万の富も、この様な場所では、石ころ同然であることが分って来た。百万金よりも、一片のパンの方が有難い。一杯の水の方が望ましいとは、何という変てこな立場であろう。事実、わしはペコペコに腹が減っていたし、痛い程喉が乾いていたのだ。
まるで夢か、お伽噺みたいな、莫大な財宝の発見に、一時は有頂天になった丈けに、それが、ここでは石ころ同然だと分ると、わしは、ガッカリしてしまった。
何という運命のいたずらであろう。失望させて置いて喜ばせ、喜ばせたかと思うと、今度は又もやさか落しに奈落の底だ。その度毎に、わしの苦しみは、恐れは、悲しみは、二倍になり三倍になって行くのだ。
わしは、百万円の棺に凭れて、グッタリとしたまま、長い長い間、身動きもしなかった。他人が見たならば、きっと「絶望」という題の彫刻そのままであろう。絶望の極、智恵も力も抜けてしまったのだ。
と、その虚に乗じて、女々しい感情が群がり起る。わしの無表情な空ろの目から、涙ばかりが、止めどもなく流れ出した。
瑠璃子! 瑠璃子! あれは今頃、どうしているだろう。彼女もやっぱり、あの美しい頬に涙を流して、いとしい夫の死を悲しんでいるのかしら。アア、懐しい泣き顔がありありと見える様だ。
瑠璃子! 瑠璃子! 泣くのじゃない。泣いたとて帰らぬことだ。生き残ったお前には、やがて楽しい日が廻って来るだろう。何も泣くことはない。サア、涙を拭いて。笑っておくれ。お前の可愛らしい笑顔を見せておくれ。
アア、瑠璃子が笑った。あの笑顔。百たびも、千たびも、その美しい額に、頬に、唇に、胸に、口づけをしてやり度い。
だが、今は、永遠にそれのかなわぬ身の上だ。わしはよよと泣き伏した。泣いても泣いても泣き足りなかった。
たった壁一重だ。鉄扉一枚だ。その外には、暖かい娑婆の風が吹いている。日も照り月も輝いている。そのたった一重の障害物を突き破り得ないかと思うと、人間の無力がつくづくなさけなくなった。
わしはふと、嘗つて読んだ大デュマの『巖窟王』という小説を思い出した。その主人公のダンテスは、十何年というもの地下の土牢へ押込まれていたのだ。
わしはつい、あのダンテスと自分の身の上を比べて見た。一体どちらが不幸だろう。ダンテスには恐ろしい獄卒の見張りがあった。だが見張りがある方がまだしも仕合せだ。ひょっとして、頼みを聞いて、自由を与えてくれまいものでもないからだ。このわしには頼もうにも獄卒がいないではないか。
獄卒がいなければ、三度の食事を運んでくれるものもない。ダンテスは餓死する心配がなかったのだ。従って、あの固い漆喰壁を掘って、気長な脱獄を企てることも出来たのだ。
わしだとて、十日二十日もかかれば、この石壁を掘り破ることも出来るであろう。だが、わしには弁当を運んでくれる人がないのだ。
アア、何というみじめな身の上であろう。あの恐ろしい物語の主人公ダンテスさえ羨ましく思わねばならぬとは。
併し、かなわぬまでも!
わしはふとダンテスの古智を学んで見る気になった。蝋燭を地上に立てて、鉄製の燭台を武器に、石壁にぶつかって見た。わしは、汗みどろになって、泣きながら、唸りながら、燭台をふるった。休んでは始め、休んでは始め、一時間程も、石壁と戦った。
だが、アア、何のことだ。わしは蝋燭の尽きることを勘定に入れていなかった。漆喰に五六分程の深さの穴が出来たと思う頃、又しても穴蔵の中は真の闇に包まれてしまった。