肉食獣
わしはとうとう自殺をあきらめた。そして、自殺をする代りに、実に今思い出しても身の毛もよだつ恐ろしいことを考えついた。
昨日もお話した通り、その墓穴の中には、わしの一家の先祖代々の棺が、ズラリと並んでいた。奥の方から順番に並べて行く慣例だから、一番手前の棺が、一番新しい死人を葬ったものに相違ない。
わしは、十七歳の折父の葬式に列したきり、この墓穴へ近づいたこともないけれど、ここへはわしの分家のものなども、埋葬されることになっていたから、一番手前の棺には、存外新しい死骸が入っているかも知れぬ。エエと、わしの親戚で、ごく最近なくなったのは誰であったか。
オオ、そうだ。分家の娘のお千代が死んでいる。分家といってもわしの家とは永らく仲たがいになっていて、日頃余り行来をせぬけれど、墓場丈けは、先祖からのならわしで、ここへ葬ったのをちゃんと覚えている。
それを知ると、わしはもう、耐らなくなった。本当に腹の減った気持を知らぬみなさんには、この時のわしの喜びを想像することは出来まい。まさか、なんぼなんでもと、みなさんはきっと顔をしかめるだろう。
だが、浅間しいことに、わしはニヤニヤと笑い出したのだ。肉食獣が獲物を見つけた時の様に、我を忘れて、鼻をヒクヒクさせ、舌なめずりを始めたのだ。
わしは金属製の燭台を握ると、ゴソゴソとその新しい棺の方へ這い寄って行った。どうして蓋をこじ開けたのか、もう無我夢中であった。
わしは、ムチムチと肥え太った、若い娘の肉体を幻に描いていた。それが非常な魅力で野獣の食慾をそそった。わしは恐ろしい肉食獣になり果てていたのだ。
蓋をこじ開けると、片手をさし入れて、中を探り廻った。先ず指に触れたのは、冷い房々とした髪の毛であった。わしはもう、喉をグビグビ云わせながら、嬉しさに夢中になって、その髪の毛を握りしめ、グイと持上げようとした。
持上げようとした拍子に、わしは力余って、うしろへ倒れてしまった。髪の毛の根元には何にもなかったのだ。肉が腐って、抜け落ちたのであろうと、更らに手を入れて探って見ると、いきなりゴツゴツした固いものに触った。なで廻して見ると、乾き切った頭蓋骨だ。洞穴の様な二つの眼窩だ。唇のないむき出しの歯並だ。
胸にも腹にも、カラカラの骨の外には、柔かいものは少しもない。肉も臓腑も、蛆虫の為に食い尽され、その蛆虫さえ死に絶えてしまったものであろう。
アア、その時のわしの失望はどれ程であったろう。若い娘のふくよかな肉体を幻に描いて、夢中になって、僅かに残っていた最後の精力を使い果してしまったのだ。絶望の極、もう身動きをする力もなかった。棺の中へ手をさし入れたままの姿勢でグッタリとなってしまった。だが今から思うと、それがわしにとっては非常な仕合せであった。
あの時、棺の中に少しの腐肉でも残っていたら、わしはきっと、その蛆のわいた人肉を、手掴みにして、ムシャムシャやっていたに違いないからだ。人として人の肉を啖う。世にこれ程罪深く、浅間しいことがあるだろうか。わしはもう、ただそれ丈けの理由で、二度と世間に顔を曝す勇気が失せてしまったであろう。
併し、それはあとになって考えること、当時は心がひもじさで一杯になって、良心もなにも、どっかへ押し出されてしまっていたので、仕合せに思うどころか、絶望の極、メソメソと泣き出したものだ。泣いたとて、もう涙も流れぬ。声も出ぬ。顔の筋肉を出来る丈けしかめて、泣いている表情をするばかりだ。
暫くは、そうしてグッタリとなっていたが、何となくあきらめ切れぬ心が湧いて来た。人間の生きようとする執念深さはどうだろう。わしは又燭台を握って立上った。筋肉に立上る丈けの力が残っていた訳ではない。ただ生きよう生きようともがく本能力が、わしを動かしたのだ。
わしは最早や人間ではなかった。野獣でさえもなかった。謂わば胃袋のお化けであった。不気味にも執拗なる食慾の権化であった。
どこからあの様な力が出たのであろう。わしはまるで機械の様に、順序正しく、十幾つの棺を、蓋をこじ開けては中を探り、こじ開けては探りして行った。若しや、何かの間違いで、その中に新しい死人の棺が混っていはしないかと念じながら。
だが、無論、それは空頼みに過ぎなかった。どの棺も、どの棺も、中にはカサカサにくずれ干からびた骸骨ばかりであった。
そうして、わしはとうとう、墓穴の一番奥の棺に達した。恐らくこれが、この呪わしい洞窟を考案した先祖の棺であろう。蓋を開いて見るまでもない。骸骨に極っている。わしはよっぽど開かないで置こうかと思った。併し、わしの執念は、理性を超越して、自動機械みたいに依怙地になっていた。わしは、その最後の棺さえもあばき始めた。
あとになって考えて見ると、その棺の中に眠っていた、異国風の墓地を考案した先祖の霊が、この様なむごい目を見せた詫び心に、気力の尽きたわしを励まして、その最後の棺に導いてくれたのかも知れない。
若し一つ手前の棺であきらめてしまって、最後の棺を開かなんだなら、わしはこうして、仮令牢獄の中にもせよ、今まで生き永らえていることは思いもよらなかったであろう。その最後の棺が、わしの救主であった。