不義の二人は、誰よりも恐ろしい大牟田敏清が、一間と離れぬ木蔭に身を潜めているとは夢にも知らず、いつかわし達夫婦の為に作らせたベンチに腰をおろし、肌と肌とを押しつける様にして、ひそひそと睦言を交し始めた。まるで夫婦だ。イヤ夫婦よりも親しい情人と情人だ。
わしが隠れている所からベンチまではほんの三尺程しか隔っていない。月光は冴え渡っている。わしの眼には、見まいとしても、彼等の顔の筋肉の一筋までも、ありありと見えるのだ。彼等の低い囁き声も、百雷の様に聞えるのだ。
彼等は子供の様に両手を取り合い、顔と顔とを向け合って、じっとしている。マア何て可愛いんだろうと、お互の顔をあかず眺め合っているのだ。
瑠璃子の顔が丁度真正面に見える。アアあの嬉しげな顔、あの溶ける様な笑顔、わしが死んでから一滴の涙も流さず、顔に悲しみの一筋をもよせなかったことが、一目で分る。
この笑顔こそ、さい前古着屋の主人が云った「悪魔の笑顔」に違いない。だが、何という美しい、あどけない悪魔だろう。生れたての赤ん坊の様に無邪気な、この笑顔の奥に、あの様な悪念が潜んでいようと、どうして信じられるものか。わしは憎みは憎みながらも、嘗ての愛妻の余りの美しさに、ついうっとりしないではいられなかった。
手を取り合って、遠くから見交わしていた二人の顔が、溶ける様に笑みくずれながら、やがて徐々に接近して行った。
川村の顔は見えぬけれど、いやらしく弾んだ息が聞える。瑠璃子は、顔を心持上に向けて、眼を細め、口辺に何とも言えぬ嬌羞を含みながら、花びらの様な唇を、ソッとさし出している。
わしは見るに耐えなかった。だが、見まいとしても、目が釘づけになって、云うことを聞かぬのだ。
四つの唇が固く合わさって離れなかった。
わしはそれを目で見、耳で聞いた。
川村の背広の背中を、両脇から、しなやかな白い指が中心へと這い寄っていた。艶かしき虫の様に、五本の指の関節に力がこもって、がりがりと服地を掻く様にして、両人の呼吸と共に、その指が近寄り、遂に、指と指を握り合せてしまった。
唇を合せながら、瑠璃子の両手が、川村の背中を抱きしめているのだ。
川村とても同様である。彼等は今や、両頭の獣の如く、全く一体になったかと疑われた。
わしはギリギリと奥歯を噛んだ。掌に爪がささる程拳を握った。冷いあぶら汗が額からも、腋の下からも、気味悪く流れた。そしてしゃがんだ身体全体が、おこりでも患った様に、ワナワナ震い出すのをどうすることも出来なかった。
若し彼等の狂態が、もう一秒長く続いたならば、わしは気が違って、前後の分別もなく其場へ躍り出したかも知れない。或は気を失って、そこへ悶絶してしまったかも知れない。
その瀬戸際でやっと彼等は身を起した。そして、激情に目の縁を赤くして、又してもニッと、溶ける様な笑顔を見合わした。
「ねえ、義っちゃん」
暫くすると、瑠璃子の口の花びらがほころびて、先ず川村を呼びかけた。
たった五日前までは、川村さん、川村さんと呼んでいた相手を、もう義っちゃんだ。一通りの親しさではない。
「ねえ、義っちゃん、あたし達地獄岩に感謝しなければいけないわね。もし、あの岩が割れてくれなかったら、今時分、こんなことしてられやしないもの」
アア、わしの愛妻は、わしの変死を感謝しているのだ。
「フフン、地獄岩なんかより僕を褒めて貰いたいね。あの岩がうまい具合に割れて落たのを、瑠璃ちゃんはまさか偶然だと思っているんじゃないだろう。アア、考えて見ると恐ろしいことだ。僕は君の愛を独占したいばっかりに、大罪を二つも重ねてしまった。僕は二重の人殺しだ。こうまで尽している僕を、君はまさか捨てやしまいね。若しそんなことがあろうものなら、第三の殺人事件が起ることを、覚悟しておいでよ」
川村は、月の外には聞くものもないと気を許し、恐ろしい打開話をしながら、又しても、瑠璃子の背中へ手を廻した。
わしは、それを盗み聞くと、ギクンと、心臓が喉の所へ飛上る様な気がした。アア、わしは怪我で辷り落たのではない。川村のしかけて置いた陥穽に陥ったのだ。わしは殺されたのだ。一度殺されて再び甦ったのだ。
その下手人は、川村であった。無二の親友として、妻の次に愛していた川村であった。誰のお蔭で紳士面がしていられるのだ。みんなわしが生活を保証してやった為ではないか。その恩義を仇にして、妻を盗むさえあるに、このわしを殺そうとは。
アア、わしは妻にそむかれ、友に裏切られ、友の為に殺害され、しかも彼等の手によって身の毛もよだつ生埋めにされたのだ。世の中に又と二つ、かくも残酷な責め苦があるだろうか。恨むが無理か。憤るが無理か。責め苦が烈しければ烈しい丈け、怒りは深いのだ。怒りが深ければ深い丈け、復讐心は燃えに燃えるのだ。
皆さんは記憶なさるだろう。わしの家は代々恨みを根に持って、いつまでも忘れぬ血筋だ。復讐心の人一倍に強い血筋だ。わしは已にして、復讐の鬼に化した。不義の両人をまのあたりにして、掴みかかって行かなかったのは、実にこの根強い復讐心の為であった。その場ですぐ様わめきちらす様な浅い恨みではない。じっとこらえて、徐ろに計画をめぐらし、丁度わしが受けたと同じ苦しみを、先方に与えるのが、真の復讐というものだ。
それは兎も角、わしは川村のこの驚くべき告白を聞いて、ギョッとしながらも、やっぱり化石したまま身動きもしなかった。そして、全身を耳にして、次の言葉を待った。どんな些細な一言も、聞きのがすまいと、耳をそばだてた。
彼は今二重の人殺しをした様に言った。一人はこのわしに違いない。もう一人は一体全体何者であろう。わしはそれがひどく気がかりであった。その憐むべき被害者というのは、やっぱりわしの血筋のものではあるまいかと直覚的に感じた。
だが一体誰だろう。わしの知っている限りでは、わしの一族に殺されたものは勿論、最近死亡したものすらない。
事実は正にその通りだ。併し、事実以上の何ものかがわしの心臓を脅かした。誰とも分らぬ、非常に親しいある人の見るも無残に傷けられた、血みどろの幻が、ボンヤリと目の前に浮んで来た。