奇妙な主治医
さて次に住田医学士の番だ。
わしはそそくさと元の談話室に取って返し、きっかけを作って住田と言葉を交し、先ずホテルの食堂で一献、それから住田の案内で町でも有名な日本料理屋へと、車を飛ばすまでにこぎつけた。見ず知らずの男と旧知の如く酒を汲み交すなんて、以前の大牟田敏清には迚も出来ない芸当だが、一度地獄を通って来たわしは、最早昨日のお坊ちゃんではなかった。
わしは相手の程よく酔った頃を見はからって、話を大牟田子爵の愛妻瑠璃子のことに落して行った。何かと話す内、住田は果してわしの謀に乗って、Y温泉湯治時代の瑠璃子について喋りはじめた。
「妙なことがありますよ。僕には名を隠していたけれど、あとで聞いて見ると、あれは確に大牟田子爵夫人でした。夫人は身体に妙な腫物が出来たといって、温泉の別荘へ来て居られた。それは確です。僕はその変名婦人の主治医ということになっていました。それも確です。ところが里見さん、不思議なことには、主治医の僕は一度だって夫人の病気を見舞ったことはなかったのですよ。ハハハ……、何と不思議じゃありませんか……」
さては、さては、大牟田子爵ばかりではない、この住田医学士さえ瑠璃子の身体を見ることを禁じられていたのだな。
「それでね、これもあとから分ったことだが、子爵が心配をされてね。僕を訪ねて、色々と奥さんの容体を聞かれたのだが、僕の返事はいつも一つです。大分およろしい様です。間もなく御全快でしょう。とね。ハハハ……」
酒の為に異様に饒舌になった医学士は、前後の考えもなく喋るのだ。
「では、あなたは、無報酬の主治医を勤めた訳ですか」
「どういたしまして、僕は主治医としての謝礼は決して辞退しなかったですよ。僕は奥さんを診察するというのに、奥さんの方で見せないのですから、仕方がないじゃありませんか。それに、川村画伯の事を分けてのお頼みもありましたしね」
川村と聞いてわしはギョッとしないではいられなかった。やっぱりそうだ。瑠璃子の奇病の蔭には川村奴の悪智慧が働いていたのだな。アアわしは何という馬鹿者だったろう。
「ホウ、川村画伯というと、若しや川村義雄君のことではありませんか。大牟田の親友だったという」
わしはさりげなく聞き返した。
「そうです、そうです。あの川村さんです。あの人が僕に頼むのです。この方は、さる良家の奥さんだが、身体のおできをひどく恥かしがっていられる。それを、旦那様に見せるのが、いやさに、こうして湯治に来ているのだ。併し、旦那様にはお医者の診察を受けている体にして置かないと、迚もやかましいので、甚だ御迷惑だけれど、名前丈けの主治医になってくれ、そして若し旦那様から容体を尋ねに来る様なことがあったら、よろしく答えて置いてくれ。という注文なんです。奥さんは見ず知らずの開業医にさえ、醜い肌を見せるのはいやだと、駄々をこねたんですね。美人という奴は実に難儀なものではありませんか。ハハ……」
アア、住田医学士も大牟田子爵に劣らぬ馬鹿者だ。彼は医者の癖に、まんまと瑠璃子の口車に乗ってしまったのだ。
腫物だって? ハハ……、なんて恐ろしい、でっかい腫物だったろう。
わしは、上海滞在中にその事を考え抜いて、やっと一つの結論に到達したのだ。皆さんは瑠璃子のY温泉への転地療養がたっぷり半年もかかった事を記憶されるだろう。しかもその三月程前まで、わしはチフスで入院していた。その入院期間が又殆ど三ヶ月であった。通計すると約十二ヶ月の間、わし達の夫婦生活が妙な具合になっているのだ。
わしは幾度も指を折って数えて見た。そしてとうとうある恐ろしい秘密を感づいた。この長い別居生活と、いつかの晩川村と瑠璃子とが囁いていたもう一つの殺人と結びつけて見て、わしはゾッとしたのだ。瑠璃子をY温泉へやることを、わしに勧めたのは川村だったではないか。しかも今住田医学士に聞いて見ると、医師が瑠璃子を診察せぬ様に説きつけた男が、やっぱり川村だったという。これらの一聯の出来事には、偶然なんて一つもなかったのだ。凡て凡て姦夫川村義雄の恐ろしい悪智慧の企んだ仕事だった。
住田医学士の言葉を聞くと、もう一刻も我慢が出来なかった。その翌日、わしはY温泉の元のわしの別荘へ行って見ることにした。今頃そこへ行ったとて、何がある訳ではないけれど、あの山の中の淋しい一軒家に、恐ろしい罪悪が隠されているかと思うと、じっとしていられなかったのだ。