「あいつは、きっと知っているのだ。この部屋で何かがあったことを知っているのだ。それを態とそ知らぬ振りで、ボールを探す様な顔をして、その実は二階の様子を伺いに来たのだ」
庄太郎はふとそんな事を考えた。
「だが、あいつは、仮令銃声を疑ったとしても、俺がこの家へ来ていることは知る筈がない。あいつは、俺が来る以前から、あすこで遊んでいたのだ。この部屋の様子は、広っぱの方からは、杉の木立が邪魔になってよくは見えないし、たとえ見えたところで、遠方のことだから、俺の顔まで見別けられる筈はない」
彼は一方では、そんな風にも考えた。そして、その疑いを確める為に、障子から半面を出して、広っぱの方を覗いて見た。そこには、木立の隙間から、バットを振り振り走って行く、二郎の後姿が眺められた。彼は元の位置に帰るとすぐ、何事もなかった様に打球の遊戯を始めるのであった。
「大丈夫、大丈夫、あいつは何にも知らないのだ」
庄太郎は、さっきの愚な邪推を笑うどころではなく、強いて自分自身を安心させる様に、大丈夫、大丈夫と繰返した。
併し、もうぐずぐずしてはいられない。第二の難関が待っているのだ。彼が無事に門の外へ出るまでに、使いに出された婆やが帰って来るか、それとも他の来客とぶっつかるか、そんなことがないと、どうして断言出来よう。彼は今更そこへ気がついた様に、慌てふためいて階段をかけおりた。途中で足が云う事を聞かなくなって、ひどい音を立てて辷り落ちたけれど、彼はそんなことを殆ど意識しなかった。そして、まるで態との様に、玄関の格子をガタピシ云わせて、やっとのことで門の所までたどることが出来た。
が、門を出ようとして、彼はハッと立止った。ある重大な手抜りに気づいたのだ。あの様な際に、よくもそこまで考え廻すことが出来たと、彼はあとになって屡々不思議に思った。
彼は日頃、新聞の三面記事などで、指紋というものの重大さを学んでいた。寧ろ実際以上に誇張して考えていた程である。今まで握っていたあの拳銃には、彼の指紋が残っているに相違ない。他の万事が好都合に運んでも、あの指紋たった一つによって、犯罪が露顕するのだ。そう思うと、彼はどうしても、そのまま立去ることは出来なかった。もう一度二階へ戻るというのは、その際の彼に取って、殆ど不可能に近い事柄ではあったけれど、彼は死にもの狂いの気力を奮って、更に家の中へ取って返した。両足が義足の様にしびれて、歩く度毎に、膝頭がガクリガクリと折れた。
どうして二階へ上ったか、どうして拳銃を拭き清めたか、それからどうして門前へ出て来たか、後で考えると、少しも記憶に残っていなかった。
門の外には幸い人通りがなかった。その辺は郊外のことで、住宅といっては、庭の広い一軒家がまばらに建っているばかりで、昼間でも往来は途絶え勝ちなのだ。殆ど思考力を失った庄太郎は、その田舎道をフラフラと歩いて行った。早く、早く、早くという声が、時計のセコンドの様に、絶え間なく耳許に聞えていた。それにも拘らず、彼の歩調は一向早くなかった。外見は、暢気な郊外散歩者とも見えたであろう。その実、彼はまるで夢遊病者の様に、今歩いているということすら、殆ど意識していないのであった。