「これだよ。この鞠がどうして灰の中に隠れていたか。君は変だとは思わないかね」
それを見ると二郎は驚きの目を見張った。そして、彼の額には、少しばかり不安らしい色が浮んだ。
「変だね。どうしてそんな所へボールが入ったのだろう」
「変だろう。僕はさっきから一つの推理を組み立てて見たのだがね。兄さんの死んだ時、ここの障子はすっかり閉っていたかしら」
「いや、丁度この机の前の所が一枚開いてたよ」
「ではね、こういうことは云えないかしら、兄さんを殺した犯人――そんなものがあったと仮定すればだよ――その犯人の手が触れて鉄瓶の湯がこぼれたと見ることも出来るけれど、又もう一つは、そこの障子の外から何かが飛んで来て、この鉄瓶にぶっつかったと考えることも出来相だね。そして後の場合の方が何となく自然に見えやしないかい」
「じゃ、このボールが外から飛んで来たというのか」
「そうだよ。灰の中にボールが落ちていた以上、そう考える方が至当ではないだろうか。ところで、君はよく、この裏の広っぱで、鞠投げをやるね。その日はどうだったい。兄さんの死んだ日には」
「やっていたよ」二郎は益々不安を感じながら答えた「だが、ここまでボールを飛ばした筈はない。尤も一度そこの塀を越したことはあるけれど、杉の木に当って下へ落ちたよ。僕はちゃんとそれを拾ったのだから間違いはない、たまは一つもなくなってやしないんだよ」
「そうかい。塀を越したことがあるのかい。無論バットで打ったのだろうね。だが、その時下へ落ちたと思ったのは間違いで、実は杉の木をかすって、ここまで飛んで来たのではないだろうか。君は何か思い違いをしてやしないかい」
「そんなことはないよ。ちゃんと、そこの一番大きい杉の木の根元の所で、たまを拾ったんだもの。その外には一度だって塀を越したことなぞありゃしない」
「じゃ、そのボールに何か目印でもつけてあったのかい」
「いや、そんなものはないけれど、たまが塀を越して、探して見ると庭の中に落ちていたんだから、間違いっこないよ」
「併しこういう事も考え得るね。君が拾ったボールは、実はその時打った奴ではなくて、以前からそこに落ちていたボールであったということもね」
「そりゃ、そうだけれど、だっておかしいよ」
「でも、そうでも考える外に方法がないじゃないか。この火鉢の中にボールがある以上は。そして、丁度その時鉄瓶の覆ったという一致がある以上は。君は時々この庭の中へボールを打ち込みはしないかい。そして、ひょっとして、その時探しても、植込みが茂っていたりして、分らないままになって了った様なことはないだろうか」
「それは分らないけれど……」
「で、これが最も肝要な点なのだが、そのボールが塀を越したという時間だね、それが若しや兄さんの死んだ時と一致してやしないかい」
その瞬間、二郎はハッとした様に、顔の色を変えた。そして、暫く云い渋ったあとで、やっとこう答えた。
「考えて見ると、それが偶然一致しているんだ。変だな、変だな」
そうして、彼は俄にそわそわと落ちつかぬ様子を示した。
「偶然ではないよ。そんなに偶然が幾つも重るということはないよ」庄太郎は勝ちほこって云った「先ず灰神楽だ。灰の中のボールだ。それから君達の打ったたまが塀を越した時間だ。それが悉く兄さんの死んだ時に前後しているじゃないか。偶然にしては、余り揃いすぎているよ」
二郎はじっと一つ所を見つめて、何かに考え耽っていた。顔は青ざめ、鼻の頭には粟粒の様な汗の玉が浮かんでいた。庄太郎は私に計画の奏効を喜んだ。彼はその問題のボールの打者が、外ならぬ二郎自身であったことを知っていたのだ。
「君はもう、僕が何を云おうとしているかを推察しただろう。その時ボールが、杉の木を通り越して、ここの障子の間から、兄さんの前へ飛んで来たのだよ。そして、丁度その時兄さんは、君も知っている通りピストルをいじる事の好きな兄さんは、たまを込めたそれを顔の前でもてあそんでいたのだよ。偶然指が引金にかかっていたのだね。ボールが兄さんの手を打った拍子に、ピストルが発射したのだ。そして兄さんは自分の手で自分の額を打ったのだよ。僕はそれに似た事件を、外国の雑誌で読んだことがある。それから、そこで一度はずんだボールは、その余勢で鉄瓶を覆して、灰の中に落ち込んだのだ。勢がついているから、ボールは無論灰の中へもぐって了う。これは凡て仮定に過ぎない。だが、非常にプロバビリティのある仮定ではないだろうか。先にも云った通り偶然としては余りに揃いすぎた様々の一致が、この解釈を裏書きしてはいないだろうか。警察のいう様に、これから先犯人が出れば兎も角、いつまでもそれが分らない様なら、僕のこの推定を事実と見る外はないのだ。ネ、君はそうは思わないかい」
二郎は返事をしようともしなかった。さっきからの姿勢を少しもくずさないで、じっと一つ所を見つめていた。彼の顔には、恐しい苦悶の色が現れていた。
「ところで、二郎君」庄太郎はここぞと、取って置きの質問を発した「その時、塀を越したボールを打ったのは、一体誰なんだい。君の友達かい。その男は、考えて見れば罪の深いことをしたものだね」
二郎はそれでも答えなかった。見ると彼の大きく見張った目尻から、ギラギラと涙が湧き上っていた。
「だが君、何もそう心配することはないよ」庄太郎はもうこれで十分だと思った「若し僕の考えが当っていたとしても、それは過失に過ぎないのだ。ひょっとして、あのボールを打ったのが君自身であったところが、それはどうも仕方のないことだ。決してその人が兄さんを殺した訳ではない。アア僕はつまらないことを云い出したね。君、気を悪くしてはいけないよ。じゃね、僕はこれから下へ行って姉さんにお悔やみを云って来るから、もう君は何も考えないことにしたまえ」
そして彼は、嘗つては無様に辷り落ちたあの梯子段を、意気揚々と下って行くのであった。