もう一分間そのままにしておいたなら、怪人恩田はこの世のものではなかったに違いない。神谷と弘子との仇敵は亡びてしまったに違いない。そして、後日あれほど世を騒がし、人の生き血を流した大害悪をも、未然に防ぐことができたであろう。
だが、幸か不幸か、いやいや、実もって不幸なことには、恩田の命は死の一歩手前で喰いとめられた。最後の一瞬間に救い主が現われた。
息を止めて見入っていた神谷の鼓膜に、突如異様な衝動が伝わった。眼の前の光景が、グラグラと揺れたように感じられた……銃声だ。誰かが恩田の危急を救うために発砲したのだ。
立ち昇る白煙の下を、猛獣は剥製の豹のようにピンと四肢を伸ばして、一転、二転、三転し、遂に長々と伸びたまま動かなくなった。
わずかに命を取り止めた怪人恩田は、さすがにグッタリとなって、急に起き上がる力もない。
すると、神谷の隙見の眼界へ、銃を片手にノッソリと現われたのは、さいぜん彼をこの密室へとじこめた白髪白髯の老いぼれ、恩田の父親であった。息子の危急を救ったのはその父であった。
「檻をあけたのは誰だっ、まさかお前ではあるまい。そこな娘さんか」
彼は鋭い眼を光らせて、檻の前に倒れ伏している弘子の半裸体を睨みながら尋ねた。
「そうだよ。あいつだ。あいつめ、豹に僕を喰わせようとして、檻をあけやがった」
恩田が苦しい息遣いで、さも憎々しくどなった。
「ウム、そうか。してみると、この娘はお前の敵だな。いや、それよりも、大事な豹の敵だ。わしはこいつを撃ち殺すとき、どれほど悲しく思ったか、どれほど残り惜しく思ったか」
言いながら、老人は豹の死骸の前にしゃがんで、悲しみに耐えぬもののように、その背中を撫でながら、長いあいだ黙祷していたが、やがて、キッとして立ち上がると、烈しい語調で、
「よし、もうお前を止めやしない。思う存分にするがよい。わしの可愛い豹の敵討ちだ。どうともお前の思うようにするがよい」
と言い捨てて、そのまま眼界から消えて行った。