消え失せる花売娘
結局、獣人恩田の企ては失敗におわった。彼はレビュー・ガールというものを、甘く見すぎていたのだ。一箇のダイヤモンドは充分彼女の貞操を買い得るものと誤解していたのだ。
それが案に相違して、蘭子の勢いがあまりに烈しく、ついに襖を蹴破る騒ぎに、さすがの恩田も辟易して、なにげなくその場を取りつくろい、無事に蘭子を帰宅させたのであった。それ以上騒ぎが大きくなって、警察沙汰にでもされては、恩田自身が危いのだ。だが、その翌日、蘭子から一部始終を聞き取った神谷青年は、このことを警察に告げ知らせないわけにはいかなかった。恩田はその筋のお尋ねものの恐るべき殺人犯人だったからだ。
さっそく、浜町の待合が取調べられたことはいうまでもない。しかし、その待合は恩田とはなんのかかり合いもないことがわかった。恩田の名も、彼の住所さえも知らなかった。
それから五日ほどは、別段のこともなく過ぎ去った。恩田はどこともしられぬ彼の巣窟に潜み隠れているのであろう。警察の手を尽した捜索も徒労におわった。気丈の蘭子は休みもしないで舞台に立った。劇場では、この人気女優の身辺を気遣って、屈強の男を護衛として、出勤の送り迎えをさせることになった。神谷も毎日会社を早引けにして、蘭子の楽屋部屋に入りびたり、注意をおこたらなかった。
それにしても、なんという呪わしい廻り合わせであったろう。神谷と恩田は、異性に対する嗜好が、符節を合わすように、ピッタリと一致していたのだ。でなくて、先には弘子を、今また蘭子を、申し合わせでもしたように、同時に恋するということがあるだろうか。
いやいや、そうではないかもしれない。恩田父子が神谷を仇敵と狙っているのは、疑ってみるまでもないことだ。すると、今度の蘭子の場合は、ただ偶然の嗜好の一致だけでなくて、神谷の熱愛するものを奪い取り、責めさいなんで、それを彼に見せびらかし、限りない苦悩を与えて、ひそかに快哉を叫ぼうという下心ではあるまいか。
思いめぐらせば、めぐらすほど、人間獣の奥底知れぬ執念に、神谷は心も凍る恐怖を感じないではいられなかった。
今にも、今にも、あいつは必ず再挙を企てるに違いない。蘭子から眼を放してはいけない。
命をかけても恋人を守らなくてはならぬ。願わぬことながら。彼は敵の襲来を疑うことができなかった。
すると、果たして、浜町の事件があってから六日目の夜、人間豹は、まったく護衛の人々の意表に出た、思いもかけぬ手段によって、再び江川蘭子の誘拐を企てたのであった。
その時、レビュー劇場の舞台では「巴里の花売娘」の一場面、夾竹桃の花咲き乱れる花園に、花売娘の一隊が登場して、歌いつ舞いつしていた。
十数人のコーラス・ガールの中に、ひときわ美々しく着飾って、声も顔も仕草も群を抜いた一人、それがこの場面の主人公、江川蘭子扮するところの花売娘であった。
見物席は先にもいう仮面時代、満員を通り越した大群集の、顔という顔が、判で押したように、まったく同じ笑い顔であった。その仮面の下から、太い声、甲高い声、種々さまざまの声援が、舞台の歌を消すほどのすさまじさで、ただ一人、江川蘭子に集中していた。
蘭子得意の場面である。
彼女はしずしずと、コーラス・ガールの列を離れ、舞台の中央に進みいで、手に持つ花籠を軽く揺り動かしながら、呼びものの「花売娘の唄」を歌いはじめた。
それが彼女の人気の源となったところの、甘くて艶っぽい肉声が、管絃楽の伴奏とのつかず離れぬ交錯に、或いは高く、或いは低く、或る時は怒濤と砕け、或る時はいささ川とささやき、曲節の妙を尽して数千の観客を魅了していたとき、突如、実に突如として、「巴里の花売娘」が、舞台から消えうせてしまったのである。江川蘭子が煙のように見えなくなってしまったのである。
見物は、あまりの不思議さに、しばらくは静まり返っていた。まったくその意味を了解することができなかった。もし天勝の舞台なれば、さして不思議がることはなかった。「消え失せる花売娘」という大魔術であったかもしれないからだ。
だが、レビューの台本に、歌いもおわらぬ歌姫が、かき消すごとく見えなくなってしまうなんて筋書のあろうはずはなかった。
「これはただごとではないぞ」
見物たちの頭に、何かしら恐ろしい予感がひらめいた。
だが、見物たちよりも、幾層倍の驚きにうたれたのは、本人の江川蘭子であった。夢中に歌いつづけていた時、突然、立っている床が、足の下から消えてゆくような衝撃を感じた。クラクラと目まいをおぼえて、彼女は横ざまにうち倒れてしまった。
ふと気がつくと、彼女のまわりから舞台も見物席も消えうせて、そこはじめじめと薄暗い穴蔵のような場所であった。
ああ、わかった。どうかした拍子に、せり出しの板が落ちて、奈落へ落ちてきたのだ。ここは舞台の下の奈落なのだ。いや、そうではない。せり出しの板が落ちるなんてことが、起こりそうな道理がない。きっと誰かがいたずらをしたのだ。あらかじめせり出しの台がはずれるように細工をしておいて、彼女がなにげなくそこへのるのを待ち構え、ロクロを逆に廻して、エレベーターをおろすように、突然、彼女のからだを舞台から消してしまったのだ。
では、そんなつまらないいたずらをしたのは、いったい誰であろう。
蘭子はとっさにそれと悟って、宙吊りになった四角な板の上に倒れたまま、ひょいと顔を上げて薄暗がりの奈落の中を透かして見ると、案の定、そこにうごめく三人の人影があった。
せり出しの板がおりきってしまったとき、そのうちの一人が、幽霊のように彼女の身辺に近づいてきた。ああ、あいつだ。闇にも光る二つの燐光。けだもののような息遣い。恩田だ、人間豹だ。彼は厳重な警戒のために、蘭子の身辺に近づく隙がないものだから、こんな突飛な誘拐手段を考えついたのだ。そして、彼の右手にハンカチを丸めたような白いものが握られている様子では、彼は蘭子を麻酔させた上、意識を失った彼女をかついで、この奈落を逃げ出すつもりに違いない。
廻り舞台さえ必要のないレビューの興行であったから、その時奈落には、係りの者の影も見えなかった。
舞台の下に、このような悲劇が行なわれているとも知らず、見物は身動きもせずおしだまっていた。この次には、どんな恐ろしいことが起こるのかと、手に汗を握って静まり返っていた。
すると、果たして、どこからともなく、絹を裂くような悲鳴が、場内一杯に響きわたり、その末は細く細く糸のように消えて行った。蘭子が何かしら恐ろしい目にあっているのだ。
見物席は、階上も階下も総立ちになった。泡立つ波のようなざわめきが起こった。だが、それはなんという奇怪な光景であったろう。この恐ろしい刹那、総立ちになった数千の見物は、彼らの胸騒ぎに引きかえて、その表情は、揃いも揃った笑い顔であった。セルロイド製「レビュー仮面」のほがらかなえがおであった。その数限りもない笑いの面は、江川蘭子の恐ろしい運命を、さもおかしくて堪らぬように、声を揃えて笑いこけているかのように見えた。