花吹雪
恩田は何事かに手間取っていたために、暗闇のあいだに舞台から客席へと、まぎれ込む計画に失敗し、意外に早く点ぜられた照明の中で、ハッと立ち往生してしまったのだ。彼はその醜い野獣の姿を、はれがましくも、衆人環視の中にさらさなければならなかったのだ。
しかも眼の前には、彼を指さし、彼の正体をあばき立て、彼の旧悪をどなり散らしながら、駈け寄ってくる仮面の人物がある。
人間豹はみじめにも狼狽しながら、罠にかかった野獣のように、舞台の上を右に左に走りまわった。引き返すこともできない。進むこともできない。舞台裏には係りの若い者が通せんぼうをしてがんばっている。前には見物の人の山だ。
横に逃げられないときまれば、縦に逃げるほかはない。彼はついに豹の本性を現わして、舞台の額縁の柱の裏がわを、すさまじい勢いで、掻き登りはじめた。
人間業ではない。別に足場とてもない漆喰いの円柱だ。それを彼は一匹の猫のすばやさで、みるみる天井へと姿を消してしまった。
舞台の上方、一文字幕の蔭には、蜘蛛手になって、あらゆるからくり仕掛けが張りめぐらしてある。浅黄幕の太い竹竿、照明の電球を取りつけた棚、本雨の水道管、紙の雪を降らせる籠。
人間豹はそれらの棚や竹竿を伝わって、舞台中央の天井まで逃げおおせることができた。彼はそこの照明棚にうずくまると、古いお芝居の化け猫そっくりの形相で、爪を磨ぎ、牙をむき、燐光の燃える両眼をらんらんとかがやかせて、遥か眼下に群がる人々の気勢をうかがうのであった。
「誰か、あいつを捕えてください。あいつはきっともう蘭子を殺してしまったのです。殺人鬼です」
神谷が舞台に飛びあがって、悲痛な声で叫ぶ。
場内にいあわせた二人の警官が駈けつけてきたけれど、おまわりさんとて、木登りはおぼつかない。
「おい、誰かあそこへ登る者はないか」
道具方の兄いの中から、腕っぷしの強そうな、敏捷な若者が躍り出した。
「あっしが行きましょう。向こうの梯子から登りゃわけはねえんです。行ってあいつを引きずりおろしちまいましょう」
彼は人々をかき分けて、梯子のところへ飛んでいった。さすがに慣れたものであった。彼は人間豹にも劣らぬすばやさで、垂直の梯子を駈けのぼると、天井の細い棚をヒョイヒョイと伝いながら、みるみる恩田の方へ近づいていった。
客席からは、一文字幕が邪魔をして、この絶好の活劇を見ることはできなかったけれど、その幕が嵐のようにすさまじく揺れはためくのを見ると、そこに起こっている闘争の烈しさが、まざまざと想像された。
天井で雪紙の籠が揺れるたびに、舞台には時ならぬ五色の雪が、ふんぷんとして降りしきった。立ち並ぶ夾竹桃の造花の上に、逃げまどう花売娘たちの上に、舞台に押し上がった見物の仮面の上に、警官の帽子や肩章の上に、美しい五色の雪が降りしきった。
雪ばかりではない。レビューの最終場面に用意してあった金と銀との幅広いテープがキラキラと輝きながら、一本、二本、三本、ほどけて天井から垂れ下がってくるかと見る間に、たちまち、篠つく雨の烈しさで、数十本、数百本の金銀の帯が、へんぽんとして舞台目がけてふりくだった。
背景も、舞台上を右往左往する人々も、覆い尽すかと思われる金銀の雨、五色の雪、その目もあやにきらびやかな舞台の天井には、花を降らせる大格闘が、猛獣の咆哮を伴奏に、いつ果てるともなくつづけられた。