舞台には、降りしきる雪紙が、いつかうず高くつもっていた。ふと気がつくと、その雪の上に、雨滴のようにポトリポトリと、したたっているものがあった。まっ赤な雨であった。したたるたびに、雪紙はみるみる血の色ににじんで行く。
「アッ、やられたっ。血だ、血だ」
人々は愕然として叫び出した。
天井では、豹の爪が、勇敢な道具方の若者を傷つけていた。その傷口から吹き出す血潮が赤い雨となって、雪紙を染めたのだ。
若者はもう死にもの狂いであった。このままじっとしていたら、絞め殺されるばかりだ。どうせ死ぬ命なら、この怪物を道連れに、一か八か、命がけの冒険をやってみようと決心した。
彼は、息も絶え絶えに喉を締めつけられながら、無我夢中に相手のからだにしがみつくと一緒に、今まで棚にかけていた両足を、パッと宙に浮かせた。
さすがの怪物も、この捨て身の不意打ちに抗する力はなかった。なんとも形容のできない悲痛な咆哮が天井にこだましたかと思うと、組み合った二人のからだは、降りしきる雪紙の中を、巴に回転しながら、舞台の上に墜落した。
だが、野獣は生来身軽である。烈しい物音を立てて墜落したかと思うと、アッと驚く人々の前に、彼はたちまち立ち上がっていた。見れば、いつの間につけたのか、彼の醜い顔は、例の笑いの仮面に蔽われている。
一方、殊勲の若者は、不幸にも、けだものの身軽さには敵しがたく、相手の下敷きとなって、グッタリと横たわったまま、身動きさえしなかった。その死骸のようなからだの、毒々しく血潮に染まった胸のあたりを、みるみる雪紙が埋めて行く。
「それっ、逃がすなっ」
舞台の人々は、立ちあがった恩田を目がけて、一とかたまりになって突き進んだ。
名状しがたき混乱、倒れた一人の上に、十重はたえに折りかさなった人の山、その過半数は例のセルロイド面をつけたままだ。笑いの面の蹴球戦だ。
「さあ、抑えたぞ。こいつだ。こいつだ。警官、こいつを縛ってください」
叫び声に、人の山がくずれた。
見ると、そこに、五色の雪紙にまみれて、一人の仮面の男が、もう一人の仮面の男を組み敷いていた。
組み敷いたのは神谷芳雄だ。組み敷かれているのは人間豹に違いない。だが、人間豹にしてはなんと弱々しい姿であろう。さすがの彼も、さいぜんからの格闘に疲れ果てて、非力の神谷青年に名を成さしめたのであろうか。
「仮面を! 早く仮面を取ってください」
両手のふさがった神谷が、かたわらの人に呼びかける。
「よし、おれが取ってやろう」
一人の若者が、下敷きになってもがいている男の顔に飛びついて、笑いの仮面をはぎ取った。
「アッ……」
たちまち起こる驚愕の叫び。
「人違いだ。これは恩田じゃない」
神谷青年は、飛び起きて、キョロキョロとあたりを見まわした。
道具方やコーラス・ガールを除いては、どれもこれも、仮面の人々だ。それらの仮面が、本人たちの意志に反して、さも神谷の失敗を嘲けるかのように、ニヤニヤと笑っている。
「皆さん、仮面を取ってください。犯人はあなたがたの中に混っているのだ。早く、仮面を取ってください」
神谷の叫び声に、人々は急いで顔に手をやった。仮面さえはずしてしまえば、もうしめたものだ。人間豹は、この舞台の群集の中に混っているのは間違いのないことなのだから。
だが、ああ、その時、今一瞬にして怪人を発見捕縛するばかりとなったそのとき、たちまちにして、場内は、またしてもまっ暗闇となってしまった。配電室に潜んでいた恩田の味方が、危機一髪の瀬戸ぎわに、彼を救ったのである。