虎
人とけだものの格闘であった。無気味な咆哮と意味をなさぬわめき声が入れまじり、三つのからだが巴に乱れて、床板の上をころげまわった。
二人と一人ではあったけれど、人間はけだものの敵ではなかった。いつの間にか、恩田の鋭い爪が若者たちの頸を掴んでいた。
「どこだ、どこだ」
「あ、あすこだ。あすこに掴み合っている」
ドカドカと、大勢の足音が近づいてきた。奈落に降りていた若者たちが、さいぜんの叫び声を聞いて駈けつけたのだ。
いかな猛獣とて、七人もの若者を向こうに廻して戦う力はない。危ないと見て取った恩田は、搦みついていた二人の手をつき放して、パッと飛びのくと、いきなり道具置場の中へ逃げこみ、そこに立てかけてあった書き割の表面を、パリパリと駈け上がって、たちまち天井の闇の中に姿を消してしまった。
「逃げたぞ、出入口を用心しろ」
「誰か警察へ電話をかけろ」
一人が電話室へ走って行く、残る人々は梯子を持ち出して、幾枚も重ねて立てかけてある書き割の頂上へ登っていったが、どこへ隠れてしまったのか、もうそこには物の影もなかった。またしても、舞台裏のさがしものがはじまった。道具類のあいだを、右往左往する人々、直立の鉄梯子を登って行って、天井から下界を物色するもの。奇怪な豹狩りは、いつ果つべしとも見えなかった。
「おい、みんなどこかへいなくなったじゃねえか」
さいぜんの鳶の者と若い道具方の二人が、元の場所に取り残されていた。
「ウン、この広い小屋の中を、これっぽっちの人数じゃ無理だよ。もう止そうぜ。あとはお巡りさんにお任せしちまおう」
「そうだな、じゃあ、おれたちは蘭子を向こうの部屋へ連れてってやろうじゃねえか。可哀そうに、気絶して、板の間にころがったまんまだぜ」
「ああ、それがよかろう」
彼らは書き割のあいだを取って返して、グッタリとなった蘭子のからだを、両方から抱きかかえ、道具置場を出ようとした。
「おや、変なものが落ちているな。いったい誰がこんなところへ、持って来やがったんだろう」
道具方の若者が、足元の藪畳の下敷きになっている、一匹の大きな虎の縫いぐるみを発見してつぶやいた。
「こいつあ、一幕目に着て出るやつだね、縫いぐるみっていうんだろう。いつもここいらにおっぽり出してあるんじゃねえか」
鳶の者が答えた。
「いや、そうじゃねえ。これは衣裳部屋にしまってあるんだからね。こんなところへ来ているのはおかしいよ」
「今夜の騒ぎで、誰かがウッカリ持ち出したんじゃないかい」
「ウン、そんなことかもしれない」
二人はなにげなくそこを通り越して、楽屋口への暗い廊下を、エッチラオッチラ歩いて行った。
すると、実に奇妙なことが起こったのだ。藪畳がガサガサと鳴ったかと思うと、今までその下敷きになっていた、虎の縫いぐるみが、ムクムク動き出したではないか。
無心の衣裳が独りで動き出すはずはない。動くからには中に人間がはいっているのだ。その辺がひどく薄暗い上に、藪畳の下になっていたので、二人の者は、縫いぐるみに中身があろうなどとは思いも及ばなかったけれど、実はその中に何物かがはいっていたのに違いない。
やがて、縫いぐるみの猛虎は、ムックリと起き上がると、遠ざかっていく二人のあとを追って、ノソノソと歩きはじめた。
本物の毛皮を使った、贅沢な縫いぐるみ。それが四つん這いになって薄暗い廊下を歩いて行く姿は、生きた虎としか見えなかった。
二人のものが元の日本間にはいって、その辺を取りかたづけ、蘭子の寝床を作っているあいだに、虎は部屋の前をソッと通りすぎて、俳優の下駄箱の並んでいる蔭に、グニャリと身を横たえた。そうしていると、ちょっと見たのでは縫いぐるみとしか思えない。
しばらくすると、楽屋口の大戸のそとに、大勢の靴音がして、何か言いながら、戸を叩きはじめた。それを聞きつけて、道具方の若者が、部屋を飛び出してきた。
「どなたですい? もしや警察のお方では……」
大きな声で尋ねると、そとからは警視庁のものだという返事があった。若者は掛け金をはずして、ガラガラと大戸をひらいた。
「あいつが見つかったそうだね。どこにいるんだ。早く案内したまえ」
十人あまりの警官が、ドッとなだれ込んできて、若者に急がしく尋ねた。
「まあ、どうかこちらへ」
若者が先に立って、蘭子の寝ている部屋へ案内する。おまわりさんたちは、ドヤドヤとそのあとについて行った。
「おい、こんな所に虎がいるじゃないか。物騒だね」
一人の警官が、下駄箱の隅に長くなっている縫いぐるみを、眼ざとく見つけて冗談を言った。
「おや、おや、またこんなところに落っこちていやあがる。変だなあ……なあにね、こりゃ舞台で使う縫いぐるみですよ。喰いつきゃしませんよ」
若者も冗談を返した。
だが、その言葉が終るか終らないに、作りものの衣裳とばかり思っていたその虎が、ヒョイと四つ足で立ち上がったのである。
「ワア……」
さすがのおまわりさんたちも、驚きの叫び声を立てないではいられなかった。彼らは廊下の隅に一と塊りになって立ちすくんでしまった。
「ハハハハハ、ざまあ見ろ」
どこからか嘲笑の声が聞こえてきた。
そして、猛虎は一と飛びすると、まだあけたままになっている楽屋口のそとへ、疾風のように駈け出して行った。
「あいつだ。あいつが縫いぐるみを盗み出して、途方もない変装を思いつきやがったんだ。早く、追い駈けてください。あいつが曲者です」
道具方がわめいた。
警官たちは、ソレッとばかり、戸口に殺到した。
戸外には氷のような月光が溢れていた。その月光の中の坦々たるアスファルト道を、一匹の猛虎が、まるで奇怪な幻のように走っていた。
警官たちはときの声を上げてそのあとを追った。だが、虎の逃げ足は恐ろしく早かった。みるみる追うものと追われるものの距離が隔たって行く。そして、月光の町を幾曲がり、いつしか追手は野獣の姿を見失ってしまった。
「おい、あれは、やっぱりほんとうの虎かもしれないぜ。人間が四つん這いになって、いったい、あんなに早く走れるものだろうか」
警官たちは、不思議な夢をでも見たように、茫然として月光の中に立ちつくしていた。