悪魔の足跡
その夜、神谷芳雄は、大都劇場を見物たちが残らず立ち去ったあと、警官の捜索が終るまで居残って、手に汗を握るようにして、その結果を待っていたが、人間豹恩田はもちろん、江川蘭子までが、どこから逃げ去ったのか、影も形もないとわかると、もうがっかりしてしまって、夢遊病者みたいな恰好で、フラフラと劇場を出た。
失望に眼もくらんで、どこをどう歩いたとも知らず、それでも無事にわが家にたどりつくと、出迎えた女中に物もいわず、家人に挨拶もせず、離れ座敷の居間にはいって、そこに取ってあった床の中へ、ころがりこんでしまった。
ああ、なんということだ。悪魔はまたしても彼の恋人を奪い去ったのだ。いずれは蘭子も、かつての弘子と同じ目にあうのであろう。いや、ひょっとしたら、彼女はもう生きてはいないかもしれぬ。
手も足も離れ離れに血みどろになった、ゾッとするような幻影が、まざまざと瞼の裏に浮かんでくる。
「おれはどうしたらいいんだ。畜生っ、おれはどうしたらいいというんだ」
血のにじむほど唇を噛んで、彼はやり場のない憤怒にもだえた。
「あいつにかかっては、警察でさえ、手も足も出ないではないか。それを、このおれに、どうすることができるというんだ。相手は人間ではない、一匹の野獣だ。その野獣がおれの恋敵なのだ。チェッ、おれはけだものを相手に、一人の女を争っていたんだ」
彼は蒲団の中で、むやみに寝返りをうちながら、いつまでも甲斐なき物思いにふけった。
やがて、疲労のあまり、ついウトウトとしかけると、そこには恐ろしい悪夢が待ち受けていた。彼の眼の前に、白い蘭子の肉体と、骨ばった人間豹のからだとが、あらゆる姿態をつくして踊り狂っていた。そして、最後には、夢の世界が鮮かな血潮の色に塗りつぶされた。彼はまっ赤な夢を見たのだ。まっ赤な殺人の夢を見たのだ。
コトコト、コトコト、いつまでもつづく妙な物音が、ふと彼の眼をさました。風かしら、いや、風ではない。誰かが庭から窓の雨戸を叩いているのだ。
「誰だっ」
どなりつけても、答えはなくて、音はやっぱりつづいている。
神谷は寝間着のままはね起きて、手早く窓の障子と雨戸とをひらいてみた。まさか、そんなものがいようとは、夢にも考えていなかった。何かが軒にぶら下がっていて、それが雨戸を叩くのではないかと調べてみるために窓をあけたのだ。
だが、雨戸をくって、ヒョイとそとを覗くと、彼は驚きのあまり、思わず蒲団の上に飛びしさった。
そこには、降りそそぐ月光を背に受けて、思いもよらぬ恐ろしい物の姿が、じっとこちらをうかがっていたのだ。
そのものの輪郭を縁取る毛は、月光のために銀色にかがやいて見えた。全身、毛におおわれたものであった。本来四つ足で這うべきやつが、ちょうど犬がお預けをするように、前脚を宙に浮かせて、ニュッと突っ立っていた。それは一匹の大きな虎であった。
神谷はあまりに意外な動物の出現に、恐れるよりは、あっけにとられてしまった。いつか、動物園の檻を抜けだした虎の話を聞いたことがある。その非常に珍しい出来事がいま起こったのであろうか。そして、町から町をさまよった猛獣が、偶然にも彼の部屋の窓へやってきたのであろうか。
だが、妙なことに、この虎は、人間とそっくりに雨戸をノックする術を心得ていた。それに、こいつはなぜ後脚で立ち上がっているのだろう。