「アハハハハハ、驚いたかね」
突如として、虎が物をいった。
神谷はそれを聞くと、心底からたまげてしまった。夢にしてもなんという変てこな夢であろう。
「神谷君、君はこの声を忘れたかね。忘れるはずはないんだがね。思い出してみたまえ、ほら、一年ほど前、カフェ・アフロディテで、君がはじめて聞いた声だ」
虎が陰気な声でしゃべりつづけた。
わかった、わかった、こいつは人間豹恩田なのだ。それにしても、彼はいつの間に猛虎の姿になったのだろう。今までは、虎が人間に化けていたのかしら。
「だまっているね。おれの名を口に出すのが、君は怖いのかね。それじゃ名乗ってやろう。おれは恩田だよ。君の愛人を奪おうとした恩田だよ」
そこまで聞くと、神谷は、すべてを了解することができた。こいつは芝居に使う虎の縫いぐるみをかぶっているのだ。そういう変装をして捜索の眼をのがれ、劇場を抜け出してきたのに違いない。
「き、貴様、蘭子を、どこへ隠したのだ」
神谷は精一杯の気力をふるい起こしてきめつけた。
「隠しやしない。蘭子は、もうちゃんと自宅へ帰っているよ。どっさり護衛がついてね。君はその後の出来事をまだ聞いていないとみえるね。おれはしくじったのだよ。とうとう隠れ場所を発見されてね。蘭子を取り戻されてしまったのだよ。ハハハハハ。だが、なんでもないんだ。ちょっと失敗したというまでのことさ」
「それはほんとうか」
「ほんとうとも。ほんとうだからこそ、ちょっと君に警告するために、やってきたんだよ。なに、じき帰るから心配しないでもいい。ここで君を掴み殺すのはわけはないがね。それじゃ、あんまり惜しい気がするのだよ。いずれは君も生かしちゃおかないつもりだが、それは、もっともっと苦しめたあとのことだよ。ハハハハハ」
虎は月光に頸筋の毛を震わせて、人もなげに哄笑した。母屋の家人に聞こえはしないかと、神谷の方がかえってヒヤヒヤするほどであった。
「だが、そんなことよりも、君自身もう少し用心しなくてもいいのかね。たとえば、いま僕が大声で助けを求めたら、君の方が危なくはないのかね」
神谷はだんだん大胆になっていた。
「ウフフフフ、大声を立てるんだって? 君はそんなことできやしないよ。家族の命が惜しいだろうからね。もしここへ誰かが飛び出してきたら、おれは容赦なく掴み殺してしまうぜ」
「いったい貴様は僕になんの用事があるんだ」
「おお、そうそう、すっかり忘れていたよ。蘭子のことさ。おれは一度失敗したくらいで、あの女を諦めやしない。諦めないということを、君に告げ知らせにきたんだ。どうせ君はあらゆる防禦手段を講じるだろう。そうして君がやっきとなればなるほど、おれにとっては思う壺だぜ。つまりだね、君が死にもの狂いに守っている愛人を奪い取って、君を思う存分苦しめてやりたいのさ。ハハハハハ、じゃあ、せいぜい用心したまえ」
言い終ると、彼は突然四つん這いになって、月光の中を、本物の虎とそっくりの歩き方で、ノソノソと庭を横ぎって行った。そして、パッと一と飛びすると、そこの塀を飛び越えて、恐ろしい姿を消してしまった。あとには、やわらかい土の上に、まざまざと猛獣の足跡が残っていた。
神谷は全身脂汗に濡れて、その恐ろしいものを見送ると、今さらむだとは知りながら、警察に電話をかけて、ともかくもこの事を訴えておいた。
その夜は、まんじりともしないで、夜の明けるのを待って、彼は江川蘭子の自宅へ出かけていった。
蘭子は無事であった。床についてはいたけれど、それはゆうべの激動に熱を出したまでのことであった。
神谷はなにかと彼女を慰めながら、縁側の向こうの狭い庭を眺めていた。眺めているうちに、彼の眼が飛び出すばかり大きく大きく見ひらかれて行った。
彼はそこにゾッとするようなものを見つけたのだ。庭の土の上に、彼の家の庭に残っていたのと寸分違わない、大きなけだものの足跡が、三か所ほど、ハッキリと印せられていたのであった。