縁の下のもっと奥の方の、そとから見えない隅っこに、あいつは息を殺してうずくまっているのかもしれない。それとも、天井裏の闇の中に、じっと機会のくるのを待っているのかもしれない。いや、ひょっとしたら、そこの押入れの中ではないのかしら、そこをあけると、蒲団を積み重ねた奥の方から、あいつの無気味な眼が、燐のように燃えて、じっとこちらを睨んでいるのじゃないかしら。
「神谷さん、お気の毒ですけど、すぐ近くに公衆電話がございますから、このことを警察へお知らせくださいませんか」
お母さんに言われるまでもなく、神谷もそれを考えていたところであった。彼はさっそく公衆電話へ飛んで行って、警視庁と大都劇場事務所とへ、事の次第を知らせた。
やがて、間もなく、捜査課の人たちがやってきて、蘭子の家の縁の下から天井裏に至るまで、厳重な捜索を行なったが、例の虎の皮と足跡とのほかには、なんの手掛りを発見することもできなかった。人間豹はどこにも潜んでいないことが確かめられた。
警官が一とまず引き上げて行くと、そのあとへ、大都劇場の人たち、蘭子の友だちなどが、ドヤドヤとお見舞いに来た。その人たちの賑やかな話し声が、さいぜんからの恐怖を、しばらくのあいだ忘れさせてくれた。
午後になって、事件以来蘭子の劇場への送り迎えを命ぜられている熊井という柔道家の若い事務員がやってきた。それと引き違いに、賑やかな人たちは帰って行って、あとには、蘭子親子と、神谷と、熊井の四人だけが残った。
淋しくなると、蘭子の心に、どうにもできない不安がよみがえってきた。もう日暮れには間もないのだ。日が暮れて、この世が闇にとざされると、あの化物がのさばりはじめるのだ。今夜もきっとくるだろう。いや、くるのではなくて、もうちゃんとこの家のどこかにいるのかもしれない。警官たちは誰もいないと断言したが、相手はあの怪物のことだ。どんな意外な隅っこに、人目をのがれて隠れていまいものでもない。
彼女は話の最中に、ふと聞き耳を立てて、まっ青になるようなことがたびたびであった。そればかりでない。しまいには、わざわざ立って行って、部屋の隅に背伸びをして、じっと耳をすましたりした。
「まあ、お前どうなすったの? 気味がわるいじゃないか」
母が叱ると、蘭子は「シッ」と唇に指を当てて、ソッと元の座に戻ってきて、おびえきった調子で言うのだ。
「聞こえるのよ。荒い息遣いが聞こえているのよ。きっとあいつは、あの天井板の上に潜んでいるんだわ。あたし、どうしましょう。ここの家にいるのは怖いわ。どっかへ行きましょうよ。あいつが、どうしても追っ駈けてこられないような、遠くの遠くの方へ逃げましょうよ」
「何をいってるんだ。それは君の気のせいだよ。天井裏から息遣いなんかが聞こえてたまるものか。なんにもいやしないよ。いるはずがないんだよ」
神谷は蘭子の臆病を叱ったが、考えてみると、彼女をこのままこの家に置くのは、いかにも危険な話であった。彼は寸刻も蘭子のそばを離れず守護するつもりであったし、また警官の護衛を依頼するのもできないことではなかった。しかし、相手は人間ではない。変幻自在の怪獣なのだ。大都劇場で、何千という群集を向こうにまわして戦ったやつだ。どんな護衛も彼の前には無力にひとしい。
「一ばんいいのは、君が完全に行方をくらましてしまうことだ。あいつの手の届かないところへ逃げてしまうことだ。だが、蘭子ちゃんの親戚や友だちの家じゃ、すぐあいつに気づかれるだろうし、といって、僕にも君を匿まってくれるような人の心当たりはないのだが……」
神谷が困惑していると、柔道家の熊井青年が、口を出した。
「僕はいまフッと思い出したのですが、いいことがありますよ。これならもう大丈夫ですよ……しかし、神谷さん、聞いてやしないでしょうか」
彼はささやき声になって、ソッと天井を眺めた。この男もやっぱり、人間豹がまだどこかに潜んでいるかもしれないと考えたのだ。
「大丈夫だと思うが、なんなら、賑やかな表通りを歩きながら話しましょうか」
神谷も万一を気遣っていた。
「ああ、それがいい。じゃあ、お母さんに留守番を願って、三人で表へ出ましょう」
熊井もたちまち賛成して、促すように立ち上がった。