「ですが、あいつは僕をこそ恨むべきではないでしょうか。あいつらの巣窟を焼き払ったのも、大切な豹を銃殺したのも、みんな僕のせいなんですからね。それに今度だって、先生に事件を依頼したのは僕じゃありませんか。僕をほうっておいて、先生に復讐を企てるなんて」
「それはむろん君も恨んでいるでしょうが、あいつらの悪事の第一の邪魔者は僕なのです。まずとりあえず邪魔者の方から始末をつけようというわけでしょう。それに僕のところには、あいつには見逃せない誘惑物があるのですからね」
明智はそう言って、ちょうどそこへお茶を運んできた文代夫人と顔見合わせた。似ている、似ている。文代夫人は弘子や蘭子とソックリの顔立ちではないか。
ああ、では人間豹は、眼早くも、この美しい明智夫人を、次の獲物と狙っているのであろうか。名探偵自身の若い奥さんを誘拐しようとでもいうのであろうか。
「では、あいつは……」
神谷はぶしつけにも文代さんの顔をじっと見つめながら、あまりのことに、それとも言いかねて口ごもった。
「そうですよ。少し突飛だけれど、けだものには人間の常識なんてありやしないのだから、至極単純に、感情のままに動くのですよ。この挑戦状の文句は、ほかに解釈のしようがないじゃありませんか」
言われてみると、いかにもその通りであった。なんといううまい思いつきであろう。けだものの情慾を満足させることが、そのまま名探偵への復讐手段となるのだ。あいつの考えそうな事だ。
「もしそうだとすると……ああ、僕はなんだか恐ろしくなってきました。大丈夫ですか。僕は今までの経験で、あいつの力をよく知っているのです。あいつは人間ではないのです。悪魔です。悪魔の智恵と力を持っているのです」
奥さんはよくそんな平気な顔でいられますね、と言おうとして、ぶしつけに心づいて呑みこんでしまった。
「そんな相手でしたら、面白うございますわ。明智はこのごろ、大きな事件がないと言ってこぼし抜いていたのですもの」
文代さんはそんなことを言って、可愛い八重歯であでやかに笑ってみせた。
これはまあ、見かけによらない、なんて大胆な奥さんだろう。神谷はあっけにとられてしまった。彼は文代さんが「吸血鬼」の事件で、明智の助手の女探偵として、どんなに勇ましい働きをしたかということを、少しも知らなかったのだ。
「何よりもあいつの隠れがを突きとめなければなりません。先生には何か成算がおありなんですか」
神谷が尋ねると、探偵は落ちつき払って答えた。
「突きとめるまでもありません。先方からやってきますよ。僕はそれを待っているのです」
「いつですか」
「たぶん今夜。もうその辺をうろついているかもしれませんよ。ほら、お聞きなさい。僕のうちの犬がひどく吠えているじゃありませんか」
いつの間にか日が暮れて、窓のそとはまっ暗になっていた。その辺一帯は屋敷町で、どこからか洩れてくるピアノの音のほかには、ひっそりと静まり返った淋しさである。そのうちに、けたたましい犬の鳴き声、それがたちまち近づいてくると思う間に、まるで弾丸のように応接室へ飛び込んできたものがある。
「まあ、S、お前どうしたの!」
たくましい愛犬を抱きとめた文代さんの両手は、ベットリと恐ろしい血潮であった。
Sは女主人の腕の中で、一と声異常な鳴き声を立てたかと思うと、そのままグッタリとなってしまった。したたる血潮がたちまちジュウタンをまっ赤に染めて行く。
「いったいどうしたんでしょう。この傷は?」
文代さんが少し青ざめて、意味ありげに明智探偵の顔を見つめる。
いかにも異様な傷であった。背中一面、点々とむしり取ったようになって、頸筋の一とえぐりが致命傷らしく見えた。決して噛みつかれたのではない。何かしらするどい爪のようなものでひっ掻かれた傷痕だ。だが、人間ではない。人間の爪がこんなにするどいはずはない。
「あいつだ! Sはあいつにやられたんだ。文代、用心しなさい」
スックと立ち上がった明智の手には、すばやくポケットの小型拳銃が握られていた。と、申し合わせたようにやさしい文代さんの右手にも、どこに隠していたのか、同じピストルが。
「お前は居間に隠れているんだ。ドアに鍵をかけて、決してあけるんじゃないぞ」
言い捨てて、明智は戸外へ飛び出していった。文代さんは命じられた通り、二階の居間へ駈け上がって行く。すると、どこから出てきたのか、栗鼠のようにすばやい小林少年が、明智のあとを追って、廊下を走り出て行く黒い姿が眺められた。
第二の棺桶(2)_人豹(双语)_江户川乱步_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29 点击:3337
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