「つまり明智小五郎だね」なんて、いつもはこんな気障な言い方をする人ではないのだが。
「それから、恩田の方はどうしたかというとね」明智はなかなか饒舌であった。「その自動車でもって、芝浦へ走ったのだよ。芝浦の水道鉄管置場に、恩田のお父さんが待ち受けていようという寸法なのさ。そこで、親子が相談の上、一人のルンペンに手紙を持たせて、明智の……つまり僕のだね、僕のいる所へよこしたのだ……」
「まあ、それじゃあなたは……」
「僕はそのとき、このうちの前をぶらついていたんだよ。そうしていれば、きっと恩田の父親が探しにくると思ってね。僕は恩田に変装して、やつの身代りを勤めていたんだからね。ところが、おかしいじゃないか。恩田の方ではこの計略をちゃんと知っていたんだ。恩田を捕えた時、僕がつい口をすべらせたもんだからね」
「…………」
文代さんはもう合槌をうつことができなかった。何かしらえたいの知れぬ恐怖が、背筋に迫ってくるようで、身動きもできなかった。
「で、僕はルンペンの案内で、芝浦埋立地へ出かけて行った。明智のやつ、今頃はおそらく、あの鉄管の中でルンペンどもの虜になっていることだろうよ。なぜって、あすこには、鉄管を塒にして二、三十人も、ルンペンがいるんだからね。そいつが人間豹を見つけたら、ただではおくまいからね」
話し手は、そこでまた醜怪な顔をニュッと突き出して、薄気味わるくウフフフフと笑った。
「誰です。あなたは誰です?」
文代さんは、まっさおになって、この奇怪な人物を凝視した。誰ですと聞くまでもない。これが明智自身でないとすれば、もう一人のやつにきまっているのだ。人間豹恩田にきまっているのだ。
「フフフフ、誰でもない、君の亭主だよ。君の可愛い亭主だよ」
彼はふてぶてしく言いながら、ノッソリ立ち上がって、文代さんに近づいてきた。ああどうして今までそれに気づかなかったのであろう。明智の変装なれば、こんなに眼が光るはずはない。怪物の両眼はまるで青い焔のように燃えているではないか。彼の情慾につれて、その火焔が刻一刻燃え熾って行くではないか。
文代さんは、痺れたようになったからだから、最後の力をふりしぼって、サッと立ち上がると、悪魔の手の下を潜り抜け、廊下へ飛び出して行った。
「小林さあん、誰か、早く来て……」
だが、不思議なことに、うちの中はシーンと静まり返って、誰も答えるものはなかった。
「小林? ああ、あの小僧かね。女中部屋にいるんだよ。僕が連れて行って上げよう」
怪物は、すばやく文代さんのあとを追って、恐ろしい力で彼女を抱きしめたまま、無理やり階段を降りて行った。
「さあ、見るがいい。小林も女中も、あの態だ。よくお寝みになっているんだよ」
彼は女中部屋のドアをあけて、文代さんに中を覗かせた。見れば、彼のいう通り、二人のものは、床の上に長々と、気を失って倒れている。むろん悪魔の麻酔剤の効果である。
文代さんは叫ぼうとした。叫んで近隣の救いを求めようとした。だが、いつの間にか、彼女は、唖になっていたのだ。怪物の手の平が、ギュッと鼻口を覆って、呼吸さえ思うようにはできなかった。
「コレコレ、そんなにジタバタするんじゃない。いい子だからね。今に楽にしてあげるからね」
恩田は文代さんをしめつけたまま、まるで人形でもあつかうように自由自在にした。
「君はお人形さんになるんだよ。ほら、ここにちょうど人形箱が置いてある。この中へ、今度は君がお人形さんの身代りになってはいるのだよ。すると、僕が二階の窓から合図をする。その合図に従って運送屋がこの箱を受取りにくるんだよ。運送屋というのは、つまり、僕の手下なんだがね。それからトラックでもって、運ぶ先は、さあ、どこだろうね、当ててみるがいい」
恩田はもう有頂天になって、しゃべりちらした。目的物を獲得した嬉しさと、獲得の手段のすばらしさに夢中になっていた。仇敵明智探偵が智恵をしぼって用意したカラクリを、すっかりそのまま逆に利用してやるのだ。明智の変装も、マネキン人形も、その木箱さえも。なんとまあ素敵な報復手段であろう。
文代さんは気絶するほど弱い女ではなかった。それだけに、この侮辱が一倍はげしく心を打った。なんともいえぬ嫌悪の情にガクガクと身内の震えるのをどうすることもできなかった。
けだものの体臭、けだものの呼吸、けだものの筋力。彼女は真実の豹を感じた。彼女の顔の上に猛獣の顔があった。らんらんと青光りする眼が、ヌメヌメした赤い唇が、そのあいだから覗いているするどい牙が、びっくりするほど大写しになって、一、二寸の距離に迫っていた。
彼女はその赤い唇が、トンネルみたいにパックリとひらくのを見た。すると、暗いトンネルの中から巨大な舌がペロリと現われた。ああ、その舌! 彼女はまざまざと見た。そのドス黒い舌の表面に、まるで針の山のようなするどい突起物が、一面に生え茂って、それが舌の運動につれて、風にざわめく葦に似て、サーッサーッとなびくのを。