だが、なんて大きな犬だろう。それにあの歩きかたのしなやかさはどうだ。犬ではなくて猫みたいじゃないか。やがて、その妙なけだもののからだ一面に、まっ黒な美しい斑点のあることがわかってきた。犬じゃない。といって、あんなでっかい猫なんているはずはない。すると、すると、あいつは、いったい……
見つめていると、そのものの正体は一と息ごとに明らかになって行った。あざやかな斑紋、がっしりと太い四肢、生きているような長い尻尾、まっ青に光る両眼、もう見違いはない。豹だ。豹が野放しで歩いているのだ。
だが大山親方は、このあまりに非常識な光景を俄かに信ずることができなかった。公園の中を猛獣を連れた老人がノコノコ歩いて行くなんて、おれの眼がどうかしているのじゃあるまいか。それとも夢でも見ているのかしら。
ところが、ふと気がつくと、その豹のうしろからついて行くもう一匹のけだものは、さらに一そう驚くべき怪物であった。実に不思議千万なことには、そいつは洋服を着ていた。まっ黒な洋服を着ていたのだ。そして、前脚よりも後脚が二倍も長くて、それが普通の動物とは反対に曲がっている。しかもその脚の先には靴をはいていたではないか。大きさといい、恰好といい、どうやら人間らしいのだが、人間が豹と一緒に四つん這いになって歩いているなんて、これはまあどうしたことだ。
親方がほとんど虚脱の状態におちいって、身動きする力さえなく、汗を流してそこにたたずんでいるあいだに、恐ろしい一行は空き地を横ぎり終って、左手の茂みの中へ姿を隠して行ったが、そのとき最後の洋服を着た怪物がヒョイとこちらの方を振り向いた顔、ああ、その顔の恐ろしさを、親方は一生涯忘れることができなかった。
そいつはまぎれもない人間豹であった。例のポスターの似顔絵とそっくりのやつであった。まん丸い両眼は、本物の豹よりも一そう烈しく燐光に燃えていた。そして、その恐ろしい眼の下で、まっ赤な口をキューッと三日月型にして、白い牙をむき出して、何がおかしいのか、ニヤリと笑ったのである。
そのあいだ、熊公は恐ろしい形相で喉を鳴らしつづけていたが、洋服を着た四足獣が茂みに隠れるか隠れないに、もう我慢ができなくなって、烈しく咆哮しながら、いきなり親方の手を振り切って、怪物のあとを追って飛び出して行った。鞠のように駈けて、一瞬間に空き地を横ぎり、向こうの茂みに見えなくなってしまった。
だが、床屋の親方は愛犬のことなど構っていられなかった。彼自身の命の問題であった。無我夢中で反対の方角に駈け出した。走りに走って、本堂の前の交番へころがり込んだ。
「豹が、豹が……」
彼は交番のドアにすがりついて、遥か池の方を指さしながら、気違いのように叫びつづけた。
「豹」という言葉が警官を異様に刺戟した。急いで聞きただしてみると、果たして「人間豹」の出現であった。いや「人間豹」以上の大奇怪事であった。
たちまちこの事が本署に電話された。間もあらせず一隊の警官が、ピストルをたずさえて現場に急行した。だが、いかに手早く運ばれたといっても、そのあいだに相当の時間が経過している。ものものしい警官隊が駈けつけたころには、広い公園内を隅から隅まで探しまわっても、もうそれらしいものの影さえ見えなかった。
しかし床屋さんの申し立てが、決して夢や幻でなかった証拠には、彼が猛獣の姿を見た現場からほど遠からぬ木立の中に、愛犬熊公の無残に食い裂かれた死骸が、まっ赤な布屑みたいになって横たわっているのが発見された。
それにしても、いくら都会のジャングルだといって、東京の浅草公園を、熱帯動物の豹がノコノコ歩いていたなんて、あまりに突拍子もない話ではないか。人間豹の方はともかくとして、本物の豹だけは、見かけによらず臆病な床屋さんの幻覚であったに違いない。警官たちをはじめ、この噂を聞き知った人々は、そんなふうに考えていた。
ところが、その翌日になると、その幻の豹が、なんと正真正銘の猛獣に違いなかったことが判明した。その朝浅草名物「花やしき」の支配人が青くなって警察署に出頭した。そして、同園秘蔵の牝豹がゆうべのうちに檻の中から姿を消してしまったと申し出でた。それも決して動物自身が檻を破ったわけではなくて、何物かが合鍵を手に入れて、檻の扉をひらいた形跡があるというのだ。
檻をひらいた曲者というのは、例の白髪白髯の老人、つまり「人間豹」恩田の父親に違いない。だが、一体全体なんの目的で、そんなむちゃなことをしたのであろう。ただわけもなく猛獣を巷に放して、市民を恐怖せしめて快哉を叫ぶためであろうか。それとも、もっと別の深いわけがあったのではなかろうか。まさか「人間豹」がお友だちを欲しがったというような、ばかばかしい動機からではないであろう。