それを確かめないでは気がすまなかった。もしこの突飛な想像が的中して、かくもやすやすと怪人「人間豹」を捕えることができたら……と考えると、日頃冷静を誇る名探偵といえども、さすがに胸躍らないではいられなかった。
明智は足を早めて虎男のチンドン屋に近づいていった。すると不思議なことには、相手の虎男は、何か明智をさそいでもするようなそぶりで、虎の頭で振り返り振り返り、裏通りへと曲がって行く。
明智は一と飛びでその角に達した。逃げようとて逃がすものかと、勢い込んで裏通りへ踏み出すと、そこに、虎男がボンヤリと立ち止まっていた。
「おい、ちょっと君、その虎の被りものを取って、君の顔を見せてくれないか」
明智はチンドン屋に近寄ると、いきなり呼びかけた。
虎に化けた男は、少しのあいだ、その意味がわからなかったらしく、だまっていたが、やっとして、
「エヘヘヘヘヘ、わたしの顔がごらんになりたいっておっしゃるので?」
と追従笑いをしながら、至極お手軽に張り子の被りものをヒョイと持ち上げて見せた。
その下から現われた顔は、あの恐ろしい「人間豹」であったか。いやいや、そうではなかった。明智は思い違いの恥かしさに冷汗を流した。そいつの顔は恐ろしいどころか、実に突拍子もない滑稽なものであった。
黒々とした毬栗頭の下に五十年配に見える骨張った黒い顔、西郷さんの肖像画みたいなまっ黒な太い眉、そして、鼻の下には、何々将軍とでも言いたい、実に立派やかな太い八の字ひげが、両方の耳の辺まで、二た振りの大だんびらのように、物々しくはね上がっていた。
「や、失敬失敬、人違いだったよ。もういいからそいつをかぶって、商売をはじめてくれたまえ」
明智がお詫びをして立ち去ろうとすると、チンドン屋は又エヘヘヘヘヘと笑いながら、「どうか、これを一枚」と、曲馬団の広告ビラをさし出すのであった。
明智はなにげなくそれを受け取ったが、ふと気がつくと、石版刷りの広告文の裏に、何か鉛筆でなぐり書きがしてあった。おや、変だぞ。新しいはずの広告ビラにこんなものが……と裏返して、そのいたずら書きに眼をそそいだかと思うと、明智の表情はみるみる緊張して行った。
明智君、文代さんは大丈夫かね。
おれは一度思い立った事は、あくまでやりとげる性分だよ。
見覚えのある筆癖、果たして虎と豹とはどっかで結びついていた。例によって奇抜な「人間豹」の通信手段であった。
「おい、君、これはまさか君が書いたんじゃあるまいね」
明智のするどい眼に睨みつけられて、虎男はオドオドしながら、また例のお追従笑いをした。
「エヘヘヘヘヘ、わたしじゃござんせん。つい今しがた、見知らぬかたにこう頼まれたんですよ。あの路地に待っていると、これこれこういう風采の人が今に通りかかるから、その人に渡してくれって、鉛筆でもってビラの裏へ何か書きつけて行ったのですよ」
「そいつの風体は?」
明智は噛みつくように聞き返した。
「立派な旦那でしたよ。洋服を着た三十くらいの……」
「顔は? 顔は見覚えているだろうね」
「エヘヘヘヘヘ、そいつはどうもハッキリしませんね。その旦那は妙でしたよ。わたしに顔を見られたくないとみえて、面と向かうときには、必ずハンカチでもって鼻から下を押えてましたからね」
チンドン屋は、いかめしい将軍ひげにも似合わぬボンヤリ者らしく見えた。いくらか掴まされて、喜んでご用を勤めたのに違いない。
「チェッ、君は人間豹の噂を知らないと見えるね」
「えっ、人間豹ですって」
虎男はたまげた声を出した。いかにボンヤリ者でも、あの恐ろしい獣人の名を知らぬはずはないのだ。
「そうだよ。君が頼まれた男が、つまりその人間豹だったのさ」
明智は吐き出すように言って、
「そいつはどちらへ曲がって行ったのだい」
「こっちですよ」
チンドン屋はオドオドしながら、ずっと見通しの町筋を指さした。
「急いでいたんだね」
「ええ、走るようにして曲がって行きましたっけ。すると、あいつが噂の人間豹だったのですかねえ。ブルブルブル、ああ、おっかない」
「その辺に自動車が待たせてあったのかもしれない」
「ええ、そうかもしれませんね。そんなこってすね。ですが、自動車でなくったって、もう大分時がたっていますからね。この辺にグズグズしているわけはありませんよ。エヘヘヘヘヘ、じゃごめんなさい」
虎男はいかにも愚鈍な調子でそんなことをつぶやくと、虎の首をスッポリかぶり直して、ノロノロと立ち去って行った。
明智小五郎は次にとるべき手段を、急速に考えなければならなかった。だが、それを考えながら、ふと彼は背後の空虚を感じた。ゾクゾクと背筋を襲ってくる空虚の感があった。
彼はそれが何を暗示するかを悟ると、思わずギョッとして振り返った。すると、ああ、果たして彼の背後にいるべき人の姿が見えなかった。「よいとまけ」姿の文代さんは、まるで蒸発でもしてしまったように、谷底の抜け道から姿をかき消していた。
「何かあったのだな」
明智はたちまちそれと直覚した。でなくて、文代さんがことわりもなく、彼の眼界から消え去るわけはなかったのだ。
赤い広告ビラの裏に、「文代さんは大丈夫かね」と書いてあったが、明智がそれを読んでいたその瞬間に、文代さんはもう「大丈夫」ではなかったのだ。
それにしても、一体全体どんな手段によって、白昼雑沓のただ中に、そのことが行なわれ得たのであろう。
「人間豹」いかに大胆不敵の魔術師とはいえ、これが果たして可能のことであっただろうか。