明智はだんだん気を許しながら、畳の上を這うようにして、奥の八畳へはいって行った。道具も何もない黴臭い部屋、赤茶けた畳、障子の向こうに狭い縁側があって、ガラス戸が閉まっている。
明智はその縁側まで行って、障子の蔭をしらべてみるつもりだった。そうすればあんなことは起こらなかったのだ。ところが、部屋の中ほどまで行ったとき、彼をギョッとさせた異様の物音が響いてきた。
何か大きな物体がどこかでうごめいている感じだ。決して鼠なんかではない。ふと気がつくと、右手の押入れの襖が、物音のたびごとに、かすかに揺れ動いていることがわかった。
押入れの中に何かがいる。むろん人間に違いない。だが、当の怪人物でないことは確かだ。もし彼なれば、明智の侵入を察しないはずはなく、敵に悟られるような物音を立てる気づかいはないからだ。
すると、この押入れの中にとじこめられている人物こそ、あの女に違いない。人間豹が誘拐した「よいとまけ」姿の文代さんに違いない。
明智はもうためらっていられなかった。彼はさいぜんもいう通り、愛妻を気づかうあまり、日頃の冷静を失っていたのだ。いきなり押入れの前に立ち寄ると、サッとその襖をひらいた。
すると、案の定、そこには手足を縛られ、猿ぐつわをはめられた一人の人間がころがっていた。だが、明智にとっても、おそらくは読者諸君にとっても、実に意外なことには、それは文代さんではなかった。女ではなくて男であった。しかも明智がよく知っている人物。そもそも彼をこの怪事件の渦中に引き入れる最初のきっかけとなった人物、読者はむろん記憶されているであろう。それはかつての犠牲者レビュー・ガール江川蘭子の恋人、神谷青年のみじめな姿であったのだ。
さすがの明智も、まったく予期しなかった人物との、突拍子もない再会に、愕然としないではいられなかった。
「アッ、君は」
神谷君じゃないかと言おうとしたのだ。だが、皆まで言う暇はなかった。
その時、縁側の障子の蔭に身を潜めていた男が、小豆色のジャケツにカーキ・ズボンの拳闘選手みたいな大男が、すばやく明智の背後に忍び寄って、手にした棍棒を勢いこめて振りおろした。
明智は不覚にも不意を突かれて、身をかわす暇もなく、脳天に烈しい一撃を受けた。グラグラと天地が揺れるような感じ、たちまち眼界が闇に包まれて、地の底へ地の底へと落ちて行く。彼は気を失って、その場に倒れてしまったのだ。
「ウフフフフフ、ざまあ見ろ、名探偵さん、意気地がねえじゃねえか」
大男は足先で、明智のからだを突っつきながら毒口を叩いた。
「お二人さんお知合いと見えるね。ちょうどいいや、仲よくここで寝んねをしているんだね」
彼は用意の細引を取り出すと、死人のような探偵のからだを、グルグル巻きに縛り上げ、手拭を丸めて厳重な猿ぐつわをほどこした。
「こうしてね、あすの晩方まで我慢するんだ。あすの晩には万事O・Kってわけだからね」
男は二人のとりこを見おろしながら、さも得意らしくつぶやくのであった。
何が万事O・Kなのだ。あしたの晩にはこの二人が処分されるというのであろうか。それとも、もっと別な、一そう恐ろしい事柄を意味するのであろうか。
この大男は一体なにものであろう。むろん「人間豹」の手下には違いないのだが、大敵明智小五郎をこんな男に任せておくところをみると、人間豹自身には、何かのっぴきならぬ仕事があるのかもしれない。いや、しれないではない。読者諸君はよくご存知だ。彼は熊娘の番人を勤めている。どこかしら別の場所で熊の檻を見張っている。そして、今にも恐ろしい死刑に着手しようと、あの赤い唇をなめずりながら哄笑しているに違いないのだ。
ああ、文代さんの運命はいかになりゆくことであろう。可哀そうな彼女は、明智がこのような目にあっているとも知らず、檻の中で、くらい熊の毛皮の中で、一日千秋の思いをして、名探偵の奇蹟的な出現を待ち望んでいるのだ。
それにもかかわらず、当の名探偵は、いつさめるともなく、昏々と眠っている。眠った上にご丁寧にも身動きもできず縛られている。ああ彼は果たしてこの愛妻の期待を満たしてやることができるのであろうか。いかな明智の精神力をもってしても、機智をもってしても、この難局を切り抜けるのは、ほとんど絶望的なのではあるまいか。
明智小五郎よ。今こそ君の力をためす絶好の機会なのだ。そうして、うちのめされて、縛られて、君の魂がこの世のほかの暗闇をさまよっている今こそ、君の超人的精神力、魔術的機智を、根こそぎ動員しなければならないのだ。