「観客諸君、皆さんは実に果報者でいらせられまするぞ。一頭一万円もしまする猛獣が、傷つき、倒れ、皮を破られ、肉を食い裂かれ、骨となるまでの、身の毛もよだつ光景を、今まざまざとごらんなさるのでござります。いやいや観客各位、そればかりではありませんぞ。猛獣は泣き叫ぶのです。狂乱して逃げまどうのです。ああ、まるで、それは人間のように、か弱い美しい女のように、助けを求めて泣きわめくのです。皆さんの前に、どんなむごたらしい光景が展開いたしますことやら。凄絶、惨絶、奇絶、怪絶、おそらくは観客諸君の夢にも想像されぬところでござりましょう」
ひげの猛獣使いは、何かしらわけのわからぬことを口走った。ただ観客を怖がらせるための誇張にすぎないのであろうか。それとも、彼のこの異様な言葉の裏には、真実何か恐ろしい意味が隠されていたのではあるまいか。
「さて、長口上はこれにとどめ、いよいよ、喰うか喰われるか、猛獣血闘の実演をごらんに供するでござりましょう」
鞭を斜に構えて、気取ったお辞儀をすると、金ピカ猛獣使いは、舞台の隅にしりぞいて、道具方に合図をした。
「ゴーン、ゴーン、ゴーン……」
またしても鳴り響くドラの音。
舞台に走り出た八人の男は、二つの檻に四人ずつ、ゴロゴロとそれを滑らせて、舞台前方に引き出し、檻と檻とをピッタリ合わせて、厳重な金具をはめた。
大山ヘンリー氏が、またしても一歩前に進んで、丁寧な御挨拶。すると、男どもの手で、檻と檻とのあいだの二枚の扉が、ガラガラと引き上げられた。たちまちにして、二つの檻は一つとなった。
明智小五郎と神谷青年とが、浅草公園横の大通りで、タクシーを呼び止めたのが、ちょうどその時分であった。
「M町の三つまただ。料金はいくらでも出す。五分間で飛ばしてくれたまえ」
明智が車上の人となるや、運転手にどなった。
「五分間ですって! いやあ、そいつあ無理ですよ。どんなに飛ばしたって、十分はかかりまさあ」
だが、運転手はまだ若いすばしっこそうな男だった。
「速力の規定なんか無視しても構わん。僕は警察関係のものだ。決して面倒はかけない」
「だって、市内ではいくら飛ばそうたって、先がつかえてまさあ」
運転手はもうスピードを出しながら、どなり返す。
「よし、それじゃ、懸賞つきだ。前の自動車を一台抜くたびに十円だ」
「十円? 心得たっ。だが、旦那、何十台抜くかわかりませんぜ。あとで冗談だなんて言いっこなしだぜ」
たちまち車は矢のように飛んだ。
道行く人々が急流のように後方に流れ去る。ああ、一台又一台、電車も、自動車も、トラックも、すれ違ってはあとに残されて行く。十字路の信号燈を無視したことも一度や二度ではなかった。
「コラ、待てっ!」
大手をひろげてどなっているおまわりさんのまっ赤な顔が、しかし、みるみる小さく小さく遠ざかって行く。
舞台では一つになった檻の中で、二匹の猛獣の睨み合いがつづいていた。睨み合いといっても、熊の方はさいぜんの姿勢のまま、首を垂れてじっとうずくまったまま、死んだように動かない。それに反して精悍な猛虎は、長い尾をクルックルッと表情たっぷりに廻転させながら、首を低く、身を縮めて、襲撃の前奏曲、低い唸り声をゴロゴロと鳴らしている。
「熊あ、熊あ、しっかりしろっ!」
へんてこなかけ声が客席の一隅に起こった。
「虎公、やっつけろ。ほらっ、飛びかかれっ」
また別の声援が、突拍子もない声で響きわたった。
だが、猛獣はなかなかおだてに乗らず、睨み合いをつづけたまま動かない。ただ、徐々に徐々に、猛虎の唸り声が高まって行くのが感じられた。
たまりかねた観客席から、ついに怒濤のような喊声が湧き起こった。
「やれ、やれえ……」
「やっつけろい……」
「ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ……」
猛獣よりも先に、見物が昂奮してしまった。大テントの下は、今や汗みどろの激情のルツボであった。
満を持して動かなかった猛虎も、この騒擾に刺戟されないではいられなかった。彼は一刹那、弓のように身を縮めたかと思うと、たちまち一発の巨大な弾丸となって、熊を目がけて飛びかかっていった。
「ワーッ……」
と上がる喊声、見物席は総立ちとなった。だが、なんというあっけなさ。大熊はまったく無抵抗であった。虎の一撃にゴロリと倒されるとそのまま、四肢を上にして、仰臥してしまった。
Z曲馬団(2)_人豹(双语)_江户川乱步_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
日期:2024-10-24 10:29 点击:3337
- 上一篇:暂无
- 下一篇:暂无