神谷青年は横眼遣いに、この無気味な飛び道具をジロジロと眺めたが、何も言わなかった。彼は、さいぜん明智が「人間豹」の部下の大男を縛り上げたとき、そのポケットからこのピストルを抜き取って、明智自身のポケットへすべり込ませたのを記憶していた。
車は又しても恐ろしい速度を出して、前方の自動車どもを一台一台と追い越して行った。眼の届く限り、坦々たる一直線の大道路、その遥か彼方の空に、大気の中のクラゲのように、ポッカリと浮き上がったアド・バルーンが小さく眺められた。
丸い気球の下に、何か赤い点々のようなものが、ヒラヒラしている。広告文字に違いない。だが、自動車は疾風の早さである。みるみる、その赤い点々が七ポイント活字ほどの小ささに、それから、八ポイント活字、九ポイントと徐々に大きくなって、やがて動揺する車からも、はっきり読み取れるほどに拡大した。
「猛獣大格闘……Z曲馬団」
ああ、それは目ざすZ曲馬団のアド・バルーンであった。あの風船の下にテント張りの見世物が興行しているのに違いない。
舞台の檻の中では、熊の皮がほとんど剥げるだけ剥げてしまっていた。まるで蜜柑の皮でもむくように、なんの造作もなく……これはまあ一体何事がはじまったのだ。
鳴りを静めた大群集は、彼ら自身の眼を疑わないではいられなかった。これは今ほんとうに起きているのかしら。それとも、何か飛んでもない幻覚を見ているのではあるまいか。こんなベラ棒な椿事が、果たして現実世界に起こり得るのであろうか。
檻の中では、そういう椿事を惹き起こした当の虎さえも、あっけにとられて、むしろ恐れをなして、一方の隅へ逃げ込んだまま、身をすくめてしまった。
ただ見る、檻の中央には、上半身がまっ白で下半身がまっ黒な、お化けのような一物が、スックと立ち上がっていた。だが、それはなんと艶めかしくも美しいお化けであったか。熊の皮の中から現われた白くてなめらかなものは、人間の皮膚であったのだ。しかも若くて美しい女の皮膚であったのだ。
乱れた髪の毛、泣き濡れた顔、胸も腕も、上半身はあますところなく露出していた。ただ、幸いにも下半身には厚ぼったい熊の毛皮がまといついたまま離れぬので、女はその上の恥をさらすまでには至らなかった。やっぱり熊は剥製も同様であったのだ。その中に生身の美女を包んだ拵えものにすぎなかったのだ。
しかし、見物たちは、この白昼のあやかしに魂を奪われて、急にはそれと気づくこともできなかった。陸の人魚というものがあるならば、それは文字どおり陸の人魚であった。美女と野獣との混血児、怪しくも美しき半人半獣の妖怪としか感じられなかった。
美しき妖怪は、艶やかに笑っていた。いや、笑うような口つきで泣き叫んでいた。彼女は最初立ち上がるまでは、麻酔剤によって意識を失っていたのだが、突如として眼ざめたとき、熊のかぶりものの二つのガラス玉に写ったものは、彼女に向かって襲いかかる一匹の猛虎であった。彼女は半狂乱となって逃げまどった。逃げまどいながら助けを求めて泣き叫んだ。そのかぶりものの中での泣き声が、ずっと遠方からのように感じられ、先刻以来、見物たちに一種異様の不安を与えていたのであった。
群集はそれを悟ったものもあり、悟らないものもあった。だが、一様に思い出したのは、さいぜんの大山ヘンリー氏の不思議な口上であった。
「猛獣は泣き叫ぶのです。狂乱して逃げまどうのです。ああ、まるで、それは人間のように、か弱い美しい女のように、助けを求めて泣きわめくのです。皆さんの前にどんな美しくむごたらしい光景が展開いたしますことやら。凄絶、惨絶、奇絶、怪絶、おそらくは観客諸君の夢にも想像されぬところでござりましょう」
何かそんなふうな意味のとれない奇怪至極の文句があったのを思い出した。あれだ。あれはつまりこの事を意味していたのだ。すると、熊の皮が剥がれたのも、中から美人が飛び出したのも、すべてあらかじめ計画されていたことに違いない。「喰うか喰われるか」などと、こけおどしの広告をして、その実は、こういう艶めかしいお茶番を見せるのが、この呼び物の思いつきであったのかもしれない。
だが、この半人半獣に扮している女猛獣使いは、なんてすばらしい女優であろう。あの真に迫った恐怖の表情はどうだ。あのソプラノの泣き声の美しさはどうだ。
見物はもう夢中であった。ものを言うこともできなかった。手を叩くことさえ忘れていた。生唾を呑み込み呑み込み、眼をみはって、口をあけて、名女優の命がけの演技に見とれていた。
かようにして、艶めかしき半人半獣の驚くべき恐怖舞踏がはじまった。彼女の足はよろめき、胸は烈しい呼吸に波打ち、声はすでに嗄れがれであった。
「助けてえ……助けてえ……」
恐れに飛び出した両眼と調子を合わせて、真底から救いを求める叫び声がほとばしった。
猛虎はいつまでも身を縮めてはいなかった。彼はやっと隅っこから立ち上がると、何かいぶかしげに、この美しい人獣のまわりを、グルグルと歩きはじめた。裸女は防ぐように両手を前へ突き出し、虎の歩く方へと顔を向けて、よろめきながらからだを廻している。もう泣き叫ぶ力もなかった。ただ、恐ろしいけだものから眼を放すことができないのだ。猫に魅入られた鼠のように、相手の恐ろしい形相を見つめたまま、視線をそらす力がないのだ。
虎の描く円周は、だんだん狭められていった。そして、時々立ち止まると、ちょっかいを出すように、その前脚を上げて、女人のからだにさわろうとする。そのたびごとに身の毛もよだつ叫び声が、見物の胆にこたえて響きわたるのだ。
何度もそれを繰り返しているうちに、とうとう、虎のするどい爪が美人の肩に触れた。たちまちにじみ出す鮮血が青白い肌をツルツルとすべりおちた。そして、その長い毛糸のような真紅が半人半獣の肌の白さを、眼もさめるばかり際立たせた。